100 Años




 「ちゃっかりしてるぜ。あいつも…」

ギリシアに夏が来るタイミングで、地球の真裏に飛んだ歳の近い同僚のことを指して。教皇代理秘書というポストを利用して、グラード財団の南米支社の査察旅行に続けて休暇を取り、一月半ばかりヴァカンスに行ってくると、彼が旅立ってから半月余。今頃彼は、牡牛座の愛人と、彼の故郷サンパウロにいるはずだった。


 「あのお日さま嫌いの深海魚が、まさか赤道直下のメヒコに行くなんてな…」

あいつ、生きていけるのかね?と蟹。職権乱用も甚だしい美貌の魚座と、彼に甘い同居人の所為で、しっかり、彼の留守中の庭園の世話を押し付けられているのだ。

「あの夜型ぶりなら問題ないだろう」

どうせ、夜遊びしかしてないさ。女神の温情により聖戦後復活した、最近になって此処に棲み出した自分と違い、この宮で長いこと彼と近所付き合いをしてきた同居人は、こともなげに言った。



 「メヒコより愛をこめて」

地球の裏側で愛人に、散々甘やかされているだろう彼から、航空便で届けられた荷物。戯けた言伝てのカードとともに届けられたその包みは、消印がメキシコ。メキシコに視察に行ってきたとの触込みで届いたそれの、中身はほとんど酒瓶ばかりで。同じスペイン語圏出身ということもあり、メヒコ贔屓の男に宛てられていた。




 「俺には何もなしかよ…」

そもそも、南米からギリシアまで、こんなに酒ばかり航空便で送って、一体いくら掛かったのだろう。優に酒代は超えているはずだ。

「此処に住んでるからまとめてるだけだろう」

お前の方が酒好きじゃないか。不貞腐れる相方に、山羊座はさり気なく言って箱のなかを物色する。酒の瓶は全て、テキーラであった。



 「シエン・アニョスか…」

良い名だな。ラベルにスペイン語で「百年」を意味する言葉を認めると、引き当てた瓶を丁寧に手に取る山羊座は、穏やかに言った。

「シエン・アニョス…・デ・ソレダド…お前の愛読書だもんな」

ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』。スペイン語で書かれたなかではきっと、20世紀最大の傑作だ。蜃気楼の村、マコンドの栄枯盛衰の100年間と、そこに生きる人々と、存在する神父達。血なまぐさい戦記物が好きなデスマスクにとって、決して自分好みの本ではなかったが、修道院育ちで変わった人生観を持つシュラがその世界に嵌るのは、理解出来る気がしていた。



 (…百年か)

一口に云ってしまえば、なんと簡単なことなのだろう。山羊座の綺麗な指が酒瓶の蓋を開けるのを、ぼうっと見ながら、ふとそんな風に思う。



 クリスタルのグラスに注がれた黄金色の液体から、ふんわり甘い香り。

「花の、匂いがするな…」

山羊座は注いだグラスをひとつ、相方に手渡す。デスマスクがそれを嗅ぐと、乾いた荒野に飢えた虫を惑わす、毒華を思わせる、甘い匂いがした。

「でも、花はねぇだろ…」

テキーラは、竜舌蘭という植物の樹液を、煮詰めて作る。スペイン語ではアガヴェと呼ばれる竜舌蘭は、60年の生涯に一度しか、花を咲かせないという。



 (なあ、アガヴェだって…)

60年に一度、花を咲かせるんだぜ?花の香りに誘われるように、心に浮かんだ、想いがあった。

(だからお前も…)

死ぬ前に一度くらい…。一番云いたかった言葉を呑み込むと同時に、グラスの液体を干す。砂漠から来た強い酒は喉を焼くようだった。

「…シュラ」

名を呼んで、平たい胸に、額を押し付ける。

「……」

男は、黙ってそれを受けると、自らも黄金色の液体を呷った。



 熟成されるにつれて深みを増す琥珀の液体。『百年』と名付けられたそれの、実際の月日には遠く及ばない黄金。そのなかの琥珀の欠片。


 長い月日を経て、錬られていく琥珀の…。


 ふと、どこかで彼を見つめる、琥珀の瞳が意識の片隅を過った。

(…まだ、消えないのか…)

絶望的なほどに付きまとう、琥珀の幻影。振り払おうともう一度、グラスのなかの熱を、飲み下した。




 竜舌蘭だって、その生涯に、一度は花を咲かすのだ。



 せめて、一度だけで良いから…。



 (愛していると、云ってくれ…)



 何も云わない男から、自分と同じ甘い匂いがして、思わず視線を上げる。黄金色の液体で濡れたくちびるが眼に映ると血が騒いで、ふらつく足元を気にも留めず、噛み付くように接吻けた。



 「抱けよ」

云いたかった科白の代わりに口をついたのは、いつも通りの挑発。

「…吠え面かくなよ」

静かに凄む男の黒い眼が愛しい。

「蟹は吠えねぇよ」

根こそぎ喰ってくれよ、なぁ、最後のひと摘みまで。

「…後悔しないな?」

ええ、本望ですとも。蟹座は、笑わない愛人に微笑んだ。

「…でも、聖剣の錆にはしないでねv」




 酒瓶が、百年と名付けられた黄金を、失っていく。




 ことの終わりに、屋根裏の古びた床の上に、いつしか空になったその瓶が落ちて、乾いた音を立てた。








2008/6/28, Rei @ Identikal




”Cien Años”=『百年』はテキーラ(特にtequila oro)の銘柄。

”Cien Años de Soledad”=『百年の孤独』。ガブリエル・ガルシア=マルケスの長編小説。ノーベル文学賞を受賞。

”Agave”=『竜舌蘭』。テキーラの原料。砂漠の植物で、約60年の生涯に一度、花をつけるという。