Baileys
こんな夜に、俺を慰めてくれるのは、どうしてあいつじゃないんだろう?
「なあ…帰って来て」
「無理だ。しばらく海底だって、言っただろう?」
情けない声を出した蠍を、やさしく諭す、声。
「今日だけ!もう云わねぇから!」
聞き分けのない蠍は、叫びを上げる。
「…ミロ…」
いつもは呼ばない名前を呼んで、電話口の男は溜め息をついた。
(何で一緒に居てくれねえの…?)
溜め息の向こう側に、喧噪が聞こえる。
(何処に居るんだよ?)
無邪気な蠍の頭に疑念が浮かんだ、そのとき。
"Baileys coffee"
遠い電話越しに、気取ったブリティッシュアクセントが届いた。
「……」
「ミロ、どうした?」
胸の前で受話器を握りしめたまま、突然黙り込んだ蠍座に、獅子座は、驚いて訊ねた。幼馴染みであると同時に、同じ持ち場を担当する同僚でもある彼は、仕事上のトラブルで落ち込んでいた蠍座を励まそうと、駆けつけていたのだ。
「何でもない…」
振り返ってそう云った後、受話器を置くと同時に顔を背けた蠍座の髪が、ふわりと舞った。
「ミロ…」
(何もない訳ないじゃないか)
動揺を目の当たりにして、確実に彼の恋人が何か言ったのだと考える。獅子座は、こんなときに気の利いたフォローが出来るでもなく、その後ろ姿を見つめている。
「悪い、帰ってくれるか?」
沈黙の後、振り返った蠍座は、そう言って、蒼ざめた微笑を浮かべた。
「おい、機嫌直せよ」
獅子座の恋人である乙女座の同僚に脅されるようにして、予定より早い帰宅をしたカノンは、拗ねた愛蠍から、シカトの憂き目に遭っていた。
(畜生、早く帰って来いって言ったのはお前だろうが!…なんで帰るなり、こんな目に遭うんだよ?)
疲れているのに。カノンは髪を掻きむしりたいようなやり場のない怒りを感じながらも、何とか落ち着こうと小さく息を吐いて、深呼吸をする。
「云いたいことがあったら、言ってみろ」
精一杯優しい声で言いながら、手は、手土産に持ち帰った白い酒を、氷の入ったグラスに注いで。
「ほら…」
後に続くのは、飲めよ、なのか、云えよ、なのか。蠍は差し出されたグラスを、渋々受け取った。
「…カノンは、狡い」
(おいおい…、いきなり何だよ…)
まんまと誘い水に乗った蠍に、若干及び腰ながらもカノンは、憎らしいくらいの余裕で。
「どうした?」
そう言って、やさしい笑みを浮かべた。
「お前は、俺の欲しいものを全部持ってるくせに、何ひとつくれないんだ」
「…?…」
カノンは一瞬、首を傾げた後、ふと思いついたように、もう一度微笑った。
「…もっと、全力で欲しがれ」
そうこの男は、本当に狡いのだ。
ベイリーズの甘ったるい後味が、塞がれたくちびるから忍び込んだ、アイリッシュ・ウイスキーの、濃いピートの香りでかき消される。
カノンの手の中には、アイラ産のシングルモルト、アードベッグ。
揺れる氷を包む、淡い琥珀の向こうに、同じ眼をした冥界の男の、影を感じる。
俺たちは、この世にたった二人で、生きている訳じゃない
分かってるから
今は未だ、この甘ったるい香りに酔わせて
白さで誤魔化していて
2008/9/9, Rei @ Identikal
Baileys Irish Cream is an Irish whiskey and cream based liqueur.
Baileys Coffee is made using a measure of Baileys in a cup of coffee and then topped off with cream.