振り返ったら倒れてた



 天蠍宮の朝、カノンは日課のアイロン掛けをしていた。カノンは朝が弱いくせに、朝アイロンを掛ける。曰く、

「着る前に一本でもしわが寄ってたらもう一回掛けたくなるから」

さらに、夜掛けるとしたら、する前と後、どっちということになって、アイロンを掛けたらする気が失せるし、した後はアイロンを掛けるよりまず、眠りたいから、結局は朝がベストだということになるのだ。料理が出来なかったミロに朝食の作り方を仕込んで以来、カノンの日課は、アイロン掛けの後、

「カノン、できた!!」

とミロに呼んでもらうことだ。しかし、今日はおなじみの台詞ではなかった。

「なあ、しゃぐってなんだ?」

ミロは白い紙をひらひらさせながら、カノンに持ってきた。唐突な質問に、カノンがアイロンを掛ける手を休めると、

「はい、これ」

と英文の手紙を渡した。カノン宛で、差出人は、ラダマンティス。しかし、カノンはこの手紙を目にするのは初めてだった。

「お前、どこからこれを?」

「昨日サガから預かった小包」

(しまった!)

カノンは天蠍宮に居着いているが、住所は双児宮のままだ。カノンは週2で双児宮に顔を出すので、郵便物は問題なく受け取れていた。だが、

(サガのやつ!!)

今回はどうやら双子の兄は、カノンの肉体関係のある友人からの小包を、この年下の恋人の目に、晒したかったらしい。

「開いてたのか?」

(人の小包勝手に開けるな!)

「俺じゃない」

(サガだ!)

ミロは嘘はつけない。そう、あの兄、彼しかいない。

(…絶対殺す…!)


 ラダマンティスは実家に帰るときロンドンを経由すると、カノンに洋服を仕立てて、送ってくれるのだ。カノンが欲しいものを注文し、勿論お金も払うが、カノンに貢ぎたいお年頃のラダマンティスは過少請求していた。あくまで、カノンの好みを知るための手段として、注文を訊いているのだ。貢ぎたいラダマンティスに、カノンは敢えてそれを止めはしない。それはある種のコミュニケーションであり、大人の男なりの、相手への尊重だ。今回、ミロと付き合いだしたことを聞いたラダマンティスは、カノンの英国仕立ての洋服と共に傷心の手紙を同梱していたのだった。

「…カノン、…久しぶりだ。少し遅くなったが春夏の分が仕立て上がった。お前の欲しがっていたものと近ければいいが…何しろ、直接会って聞いた要望ではないので、正直難しかった…パシュミナはお前のリストにはなかったが、俺が勝手に入れた。お前の瞳の色と同じだったから…ミャンマーの土産だと思って受け取って欲しい。 以上、ラダマンティス」

(蠍もこれを見たのか…)

期日に正確なこの冥闘士からの贈り物が遅れたのは、彼の双子の兄が、双児宮にかかってきた電話で、愚弟が蠍の家で同棲していることを、さりげなくバラしたからに他ならない。が、カノンはそんなこととは知らない。

「追伸:随分年下の恋人が出来たと風の噂で聞いた。良かったな。お前とはただ『ヤッてる』だけの仲だとは思ってはいなかったので、正直複雑な気持ちだが…心から祝福する…」

(…あ…これか…)

shagは、英国語で「情交」の俗語なのだよ、と、ミロに優しく教えるサガの姿が目裏に浮かんで、カノンは天を仰いだ。が、大人の男なので動揺は見せず、素肌にアイロン掛けを終えたばかりのシャツを羽織り、蠍の頭を撫でた。

「飯にするか」

このシャツも、ラダマンティスからの貢ぎ物である。


 夜、いつものように一戦を終えた二人は一緒に風呂に入り、風呂上がりに日課の、ドライヤー掛けをしていた。そう、付き合いだして以来、風呂上がりにカノンは欠かさず、ミロの髪にドライヤーを掛けてあげた。

「なあ、カノン」

「音が五月蝿くて聞こえんから、後にしてくれ」

バイオリン弾きのカノンは、ドライヤーの音は好きではない。甘え盛りのミロはこのドライヤータイムが大好きで、ずっとこうしていたい。

「ラダマンティスと、やったんだろ?」

(なんだと?)

今日は仕事が多忙だったのでカノンは、朝の一件を、すっかり忘れていた。今思い出して、ちょっと動揺して、ドライヤーを落としそうになったほどだ。

「サガが何か言ったのか?」

しかし、大人の男なので手を休めずに、冷静に探りを入れる。

「聞いてねえよ」

(本当かよ)

本当だ。ミロは頭が弱いので、朝カノンに訊いた単語自体、朝食時に既に忘れてしまった。

「手紙か?」

「俺、英語はわからんし、続け字は読めん」

(じゃあ、なんで朝あんなこと訊いたんだよ!)

とは、大人は言わない。

「じゃあなんだ?」

「っていうか、普通わかるだろ」

そりゃそうだ。タイミング悪く、カノンはドライヤーを掛け終わってしまい、スイッチを切ると、なんだかものすごく、無音で不安になった。

「なんでだ?」

「カノンの服ほとんどあいつの貢ぎ物だろ?普通、そう思う」

(……)

「俺は、金は払ってる」

申し訳程度だが、とは言わない。

「同じもの買って、こっそりペアルックとかされたら、どうすんのさ!」

(…やめてくれ…!)

大人の男は、愛蠍のミロとでさえ、ペアルックなんてとても、恥ずかしくて出来ない。

「あいつは大人だ、そういう子供っぽいことはせん」

(…と祈りたい…!)

「……」

ミロは、黙ってしまった。そう、カノンがラダマンティスを「大人」と言ったことに、撃沈しているのである。ミロはいつも子供扱いなのに。

(なんだ、この沈黙は…)


 「ああ、あいつとやったことはある」

カノンは沈黙に耐えられず、ミロに追い討ちをかけるだけの、無意味な告白をした。

「…彼氏だったのか?」

(…彼氏だと?)

カノンは身の毛もよだつような、悪寒を覚えた。

(アホか!)

と言いたかったが、悪寒がすごすぎて、元気が出ない。

「違う」

大人の男は、力なく吐き捨てるように言った。ミロは、

(じゃあ、何なんだ!!)

とは思わなかった。そういう関係は、ミロも経験済みだったからである。

「ならいいや」

甘えの小蠍にあっさり退かれて、カノンは内心淋しかったが、

「本当にいいのか?」

と、自分がさっき乾かした髪の毛ごと、ミロの頭を胸に抱き寄せた。


 恋人たちは電気を消して眠りにおちようとしていた。眠りにおちる前の会話も、大切なコミュニケーションだ。

「…カノンの初めてってさあ、サガだろ?」

(…何を言い出すんだ!)

仕事で疲れて、眠くてうつらうつらしていたカノンは、一気に正気に戻った。

「…どう考えても、おかしいだろう」

いや、でも事実なのだが。

「アフロが云ってた」

(…魚座か!!)

双子の兄とそういうことになったのは思春期の頃で、復活してからは大してそういうことはなかったが、兄の情人の魚座絡みでは、確かに一悶着あった。

「いつ聞いたんだ?」

最早、隠していない。カノンは嘘は嫌いなのだ。

「まだカノンに出会う前」

(…!…)

カノン、動揺中。

「俺が初めてそういうことしだした頃」

ミロは、その頃のことを思い出した。



 ミロの初めては、何を隠そう、ご近所の性教育係、双魚宮のアフロディーテであった。ミロは頭が弱く奥手であったため、悪い男に騙されないように、年上の魚が色々と教育していた。しかし、やはりもとがもとだったので、百戦錬磨の愚弟にあっさり持っていかれて、今に至るのであるが。


 「アフロ〜!!」

「ミロか、よく来たな。今から丁度お茶にするところだ」

ミロはアフロディーテのお茶の時間を見計らって、しょっちゅう双魚宮に遊びに行っていた。アフロディーテのお茶と、ピアノと、薔薇の香りと、「お茶の後の遊び」が、大好きだったのである。天蓋付きの寝台で、アフロディーテはミロをよく抱きしめて、気持ちよくしてくれた。アフロディーテはミロが好きだったし、ミロもこの、少し年上の魚座が、大好きだった。しかし、ミロは他にも、たくさんの人に愛されていた。例えば、例の、赤い髪の水瓶座である。

「ミロ、何をしている!!」

予てからミロに恋をしていた早熟な少年は、あるときミロの秘密を知ってしまった。修業先のシベリアから帰省した折、天蠍宮にミロがいないので探していると、にやけたデスマスクに、事実を告げられたのだ。瞳に、怒りを真っ赤に燃やした水瓶座は、階を駆け上がり、気がつくと双魚宮の寝室にいた。

「ふぁ?」

「…君こそなんだ!!勝手に入ってきて」

そこにいたのは全裸で寝起きのミロと、蠍のため寝台にお茶を運んできていた魚座だった。

(…何だ、お前こそ、人のものを盗んでおいて、何を抜かす!!)

水瓶座はそう叫びたかったが、残念ながら彼とミロは、未だ清い関係であった。

「…お前には用はない!ミロを連れて帰る!ミロ来い!」

というわけで、ミロは敷布一枚体に巻き付けただけで、双魚宮から連行された。

「…カミュ、何があったのだ?そのように声を荒げて」

赤い髪の王子に攫われながら、寝起きの蠍は訊いた。声だけでなく、ミロの手首を掴んで引っ張ってゆくその手は、手加減無しで痛かった。

「……」

カミュは、この期に及んで自覚無しのミロに、言葉を失った。

(こういうとき、なんと云えば良いのだろう…)

水瓶座は早熟だが、経験値が低いのだ。しかし蠍と違い、一応常識というものを持っていた。

「…魚座は、お前の彼氏なのか?」

不意に、赤い髪の少年は立ち止まって、自分に手を引かれてついてくる、幼馴染みを振り返った。

「…かれしって何だ?」

奥手な幼馴染みは、そんな単語は知らない。こんな無知な想い人を手篭めにしたのかと思うと、魚座への怒りがこみ上げて、赤い水瓶座は思わず、手に思いきり力を入れて、おバカな蠍を引き寄せた。

「…!…」

我が師の瞳は燃えている。

「カミュ!痛い!」

燃えていたが、可愛い蠍が痛がって叫んだので思わず手を放し、両手で、その赤くなった手首をさすった。

「悪かった…」

「…カミュは怒っているのだな…」

カミュは答えず、自分の手のなかの、ミロの手の五本の指を開いて、無言で手を握った。

「カミュ?」

「ミロ、彼氏というのはな…」

経験値は低いが度胸のある水瓶座は、ミロの手を握ったまま、ミロを抱き寄せて言った。

「こうやって、手を繋ぐものなのだ…」


 この後、ミロは間髪を入れずに「そうなのか?」などと聞いて、ムードを台無しにしたが、詳細は省く。



 さて、ミロが回想に耽りながら寝入ってしまうその間。思いがけず、おバカな蠍に双子の兄との秘め事が知れていることを知って、すっかり眠気がすっ飛んだ双子座の聖闘士は、悶々としながら、愛蠍に大人の男の、広い背中を見せて、考え込んでいた。

(あいつ、ずっと知っとったのか…!)

さすがの大人の男も、不仲で評判の双子の兄との近親相姦は、醜聞に堪えない。

(どこまでが知っている…!誰と誰が…!)

少なくとも聖域では、全員である。が、カノンは大人とはいえ新入りなので、そんなこと想像もつかなかった。

(くそっ!!明日の朝、どんな顔をしていいかわからん!!)

明日の朝の、心の準備ができるまで、眠れない。…疲れているのに。

(…双児宮に戻るか…)

カノンはまた、今朝の一件を、すっかり忘れてしまった。


 ふと、背中越しに傍らの蠍を振り返ると、いつもと変わらない、平和そうな顔をして、倒れていた。

(…でも明日の朝も、こいつの顔が見たい…)

蠍の寝顔を見ながらそんな軟弱なことを思ってしまい、大人の男は、自己嫌悪に陥った。






January, 2007 Rei @ Identikal