Ballades Glaciales




六弦を奏でる指に弾かれた肌が

張りつめた大気に震えて

痩せた背中を掴んだ


爪を立てられて流す、血の赤が映える


漆黒の髪のヒターノ

彼が此処に、留まることはない











その下に 埋もれてるものも知らないで



 それは、或る春先の出来事だった。



 「もうそろそろ、また行くんだったか?」

映画を観終わって、宝瓶宮の主が珈琲を煎れていると、ソファの上の客人が訊ねた。

「ああ、そのつもりでいる」

「どれ程?」

「まだ決めてはいないが…ミルクはどうする?」

「そうか…いつも通りで」

二人でいるときはフランス語で話すことにしている、気の置けない情人は応える。

「ああ、練乳か…生憎切らしていたような…」

カミュは切らしていたら済まんと言って、冷蔵庫を開ける。

「ああ、あった…そうか」

「どうした?」

「そういえば、この前あなたが来たときに…」

「この前…随分前じゃないか?」

冷静に前回の逢瀬がいつだったかを思い出そうとする情人に、主は小さく呟く。

「あなたの他に、使う人がいないから…」

そして、準備の出来た珈琲を運びながら客人に頼んだ。

「そうだ…シュラ、レコードをかけてくれないか?」

「…ああ」

山羊座は主の言う通りに立ち上がり、レコードのしまわれた戸棚に向かい、紅い髪の情人の手が食卓に珈琲と菓子が並べてゆくのを見ながら、蓄音機にレコードを乗せた。



 「ナナ・ムスクーリか?」

針を動かして頭出しをしようとするシュラに、カミュが声を掛ける。

「…シェルブールだ。これから離れる二人には、お似合いだろう?」

目当ての曲を探り当てたシュラは、用意された席に着きながら答える。

「ああ…」

先に席に着いていた主は、曖昧な微笑を浮かべて情人を見た。彼の背中越しに、ナナ・ムスクーリの歌声が流れてくる。



 「見送りにいこうか…」

練乳入りの珈琲を飲む手を休めて、突然山羊座が言い出した。

「…シュラ?」

「いらないか?」

突然の申し出に訊き返した紅い髪の情人に、シュラは問い返す。漆黒の瞳の放つ強い光に射すくめられて。

「それじゃ足りない…」

小さな声で本音を言い淀んだ。



駅のホームで彼らは別れた


最後に見つめ合う、視線が遠のいていった



 ナナ・ムスクーリが謳う。思い直したように紅い髪の主は視線を上げる。

「ありがとう…だが、止めてくれ。彼に悪いだろう?」

「…そうか?」

(…蟹のことか?)

それなりに常識人のカミュは、蟹座に一応気を遣っていた。手は早いが機微に疎い山羊座その人は、全然気にも留めていなかったのだが…。



あなたがいなければ、わたしなんていないのも同じ


ねえ、愛しているわ…わたしを捨てないで



 「シベリアは、まだ雪のなかだろうな…」

泣き叫ぶような歌声が止むと、シュラが呟いた。

(東シベリア…)

カミュは考える。

(向こうで修行に励めば、きっと思い出さない)

眷恋の幼馴染みのことも、いつの間にか馴れた愛人のことも、彼の地で氷海に呑まれた、愛弟子のことでさえ。



 気がつけば、季節外れの氷が、雹が窓を打っていた。



 閉ざされた氷の大地は未だ

 きっと春を知らない


 逃亡者は何もかも捨てたつもりで

 取り残された雪原に佇む


 すべてはその下に

 埋もれているものも知らないで











塗りつぶした白



ドアヲ開ケルトソコハ


一面ノ銀世界デアッタ



 この、赤い髪の氷の聖闘士にとっては見慣れた風景。


 ただ、そこにある黒だけがいつもと違っていた。



 「本当に、来たのか?」

「喚ばれた、と思ったのは俺の勘違いだったか?」

山羊座は真顔で、しかし瞳にどこか余裕の笑みを浮かべて、水瓶座の手を取った。

「彼は知っているのか?」

「隠しようがないだろう?」

手袋越しに触れる手が、なかに握っていたものを手渡す。少しだけ悪戯そうに言った彼の漆黒の瞳を、心持ち見上げるように見つめて。

「待っていたよ、ヒターノ」

背中に背負ったギターケースの似合う男に、呟く。

「…嬉しいよ」

肝心の科白を云うときには、視線を合わせない紅い髪の陰の、紅の瞳。その手には、よく似た紅い色をした、人形が握られていた。



 「逢いたかった…」

あ・い・た・か・っ・たと、ひとつひとつの単語を丁寧に発音する。懐かしい響き。

彼の声を、また腕のなかで、耳元で聴いて。

接吻を受けながら、こんなに人を酔わせる言葉は彼にしか囁けないと、ぼんやり思った。



 「随分髪が伸びたんだな…本当にヒターノみたいだ」

最後に逢ったときから伸ばしっぱなしなのだろう山羊座の髪は、肩より余る程で。

「…カタローニャの牡山羊だ」

「ああ、そうだったな」

軽口を交わしながら、カミュは黒髪の情人の、艶やかな髪の一房を指に絡めた。

「新しい床屋を探す暇がなかった」

絡んだ自分の髪ごと水瓶座の手を取ったシュラは、その紅い唇に口づけを落とす。

「莫迦…」



 窓の外は一面

 塗りつぶした白


 東シベリアの雪明かりのなかで絡み逢う

 赤と黒


 決して混じり合うことのない、二つの色を

 包み込む白











朧げな蒼い影 踏み潰した君の影



 「色仕掛けで懐柔出来るような相手でないのは百も承知だが、一度会ってきてくれないだろうか」

十二宮の最終防壁を勤める美貌の聖闘士が自分にそう頼んできたのはつい先頃のことだ。愛する人を守る為と覚悟を決めている彼は、迷わない口調で言った。

「シュラ、わたしたちの宮に挟まれた彼と彼の宮がこちらに付くか付かないか。それはすごく大きな問題なんだ」

「…ああ」

アテナと称される少女を旗印に極東の島国で青銅聖闘士が育てられているという噂は、既に聖域にも聞こえており、特に教皇宮周辺を揺るがせていた。

「もう一年以上もシベリアに籠ったままで…一体何を考えているのか…確かめてきてほしい」

それは頼み事ではなく、最早命令だった。幼馴染み三人のなかで最も年少だった魚座は、いつの間にか教皇の片腕となっていた。

「ああ…わかった」

とだけ言った、無口な山羊座は今、自宮の寝台の上に仰臥して、手のなかの小さな、小さな人形を眺めていた。小指の半分程の大きさの深紅の頭巾を纏った色白の人形には黄金の装飾が施されてある。






 あれはもう、昨年の春先の出来事。彼はその人形をある人から譲り受けたのだった。



ここ数日、わたしは沈黙のなかで生きている


八方塞がりの愛のなかで


あなたが去ってから、あなたの不在が


来る日も来る夜も影のようにわたしを苦しめる




 「マトリョーシュカか…」

決して小さくはないその木作りの人形を、片手ですっぽり包んでしまう、大きな手。

「空港で、弟子と揃いで買ったんだ」

「…揃いで?」

「ああ、わたしは赤、弟子は…氷河は青で…」

「……」

反応を返さない山羊座に、カミュは子供っぽいとか、少女趣味だと呆れられているのではないかと不安になって、男の手のなかにある人形を見る。

「可笑しいだろうか…?」

「…良いんじゃないか?」

唇に押し当てられる冷たい木肌の感触。悪戯に笑う黒髪の男。水瓶座の紅い瞳が躊躇いがちにその指先を辿ると、気づかぬうちに顔を近づけていた男に、唇を奪われた。

「…そんなに好きなら」

直接接吻すれば良いだろう?

「…遠慮するよ」

それよりお前が欲しいと、耳元で囁く声。応えて紅い髪の陰から漏れる、密やかな笑い声。彼の髪や瞳と同じ、紅い人形が、彼の手のなかで、敗北に震える。

「お望みのままに…」




 長く、ともすればもう逢えないかもしれない別れを告げた最後の夜だった。いつの間にか長くなった日に誘われて思わず夜更かしをした、春の夜だった。


 夜更けに隣の自宮まで帰る山羊座を、紅い髪の主は玄関まで見送って。

「シュラ、気をつけて」

「お前も」

見送りに出てきた水瓶座の腕には、先程の人形が抱えられていた。

「良ければ、餞別に…」

山羊座はいらないと断ったが、結局十個程入れ子になったなかの、一番小さい人形だけを受け取ることにした。

「さあ、これで抜け殻だ」

カミュは微笑を浮かべる。

「一番大事な中身は、あなたが持っていてくれ」

そして、決してなくさないで。そう呟いて、山羊座の上着にその小さな紅い人形を忍ばせた。



 新月の近づいた月は下弦の弧を描いて。


 宮の入り口から長く引いた水瓶座の影を踏んで、シュラは月夜と呼ぶには暗い、春の闇に紛れる。


 階を降りながらポケットに手を入れると、木の肌の、冷たい感触がした。


(あいつの、肌みたいだな…)

ふとそう思って、シュラは、蒼ざめた月を見上げた。






 屋根裏にある寝台の上に仰向いて、天井の窓を見る。


 夜空には、あの日より幾分輪郭のはっきりとした、下弦の月。


 耳の奥で、あの日二人で聴いたナナ・ムスクーリが、謳っている気がした。






ねえ、愛しい人


わたしを捨てないで











恋しさに凍える指先



 「カミュは少々禁欲的にすぎる」

というようなことを、いつか蠍座の幼馴染みに云われた。(勿論、おバカな蠍はそんな高等な言い方はしなかったのだが、詳細は省く。)

「でも、それが良い」

と言って微笑った彼の髪の感触を、今はもう思い出せない。



 東シベリアに隠遁する自分を突然訪れた山羊座の、伸びすぎた髪を切ろうと、暖炉の前に陣取った。しばらく会わないうちに肩に余る黒髪は艶やかで。けれども、うねるような癖を持っていた。

「こんなに伸びるまで放っておくなんて」

あなたらしくない。と、二月に一度以上は髪を切ってくれと頼みにきていた彼を揶揄する。

「切ってくれるやつがいなかったんだから仕方がない」

と嘯く彼の表情は背中越しの自分には見えないが、本気でないことは明らかだ。

「信じないよ」

「…こうやって来ているだろう」

「…まさか」

切りやすいように湿らせた髪から、雫が指を濡らす。鋏を持つ手が震えた。


 そうして漸く、髪を切り終わった頃。

「寒いんじゃないか?」

「何故?」

「震えている」

「そうかな?」

「ほら、こんなに冷たい…」

何気なく手を取って、息を吹きかける。彼の指先が、自分の指に絡んで。


 「おいで」

やがて、いとも容易く、体ごと引き寄せてしまう。与えられる声は直に、耳元に響いて。

「実は、アフロディーテにお前を見てくるように言われたんだ」

囁く言葉は耳触りの良いフランス語。きっと、少しだけ、語尾が明瞭な。

「……」

一瞬、言葉という言葉が、頭のなかから消え失せてしまった。手の震えも、止まる。

「どうした?…まだ震えているな」

搦めとった指先を、舐める、熱い体温が直に触れた。

「…寒いからだろう」

目を合わせられない情人の呟きに、男は満足げにその手を離して。そうして、抱きしめた。






 「凍えていたんだな…」

腕のなかで、聴く、彼の声。



 どうしてこの男は、「愛しい人よ」と空々しい嘘を吐いて、欺いてはくれないのだろう。


 けれども、最果ての地で、「人恋しかった」と云えない自分に、それを責める資格はないのだと、思い知る。



 暖炉の火に煽られるように抱かれて、いつの間にか微睡んでいると、彼の奏でる、六弦の音が聞こえて。


 さっきまで確かに捕まえていた、痩せた背中の感触を手が思い出した。











浸透する5秒前、目を瞑ってひたすら祈る



 抱かれる寸前の数秒は、いつも目眩がする



 彼が見せる完璧なギャラントリ



 「…俺のことを好きか?」

覆い被さる彼が、訊ねる。真剣な眼差しで。

「ああ」

答えは、随分自然に自分の口をついた。この黒髪が作る影で、赤い頬がわからなければ良いと思う。

愛しげに瞳を細めて、紅の髪を撫でて。だけども、すぐに元の表情に戻ってしまう。


 「俺は…、俺も、…愛していない」


 一言ずつ、噛み締めるように発音する。彼の顔が、苦しそうに歪められるのを、見ていた。



沈黙。止まる愛撫の手。戸惑う彼の黒い瞳の、悲痛な色。

きっと脳裏には、自分と同じ紅い瞳をしたあの銀髪の男が浮かんでいることだろう。

そんな表情をさせるのが堪らなくなって、自ら手を伸ばした。



 壊れかけのラジオから、喧しいロシア語に紛れて、母国語の歌が聞こえてくる。



愛しているわ、ねえ、愛しているわ


俺も、…愛していない



久しぶりに聞く、彼以外のしゃべるこの言語。



…あなたは波…



女の喘ぎ声が、途切れ途切れに云う。



 (波に、呑まれる…)



 しなやかな長い指が背中を撫で下りてくる。

 黒い絹糸の髪が、下腹部をくすぐり始める。

 波に攫われる、5秒前。


 (せめてこの瞬間だけは、この黒い瞳が、私だけを映すように…)


 目を瞑って、祈る。






 「霰が降っているな…」

朦朧とした意識のなかで彼がそう呟くのを聞いた。



 長い指が、目尻に伝う雫を拭う。



 いつかのように、耳の奥では堅い氷の粒が、窓に打ちつける音がしていた。










燃えるような紅い髪

白い磁器の肌の、冷たい感触

秘められた熱


凍てついた旅人を、放さない


雪原に沈み込むように

白い大地に独り、呑まれていく










2008/2/18, Rei @ Identikal




お題「雪」

お題元:hazyさまよりお借りしました。


引用:"Je t'aime, …moi, non plus"(Serge Gainsbourg), "Les Parapluies De Cherbourg"(Michel Legrand)

歌詞の日本語訳はReiの意訳です。

時期的には氷河が東シベリアを去ってから十二宮編に至るまでの2〜3年の間かと。(無責任…)

galanterie : 騎士道精神

Nana Mouskouri : ギリシア人の女性歌手。フランス語や英語でも歌います。