空と海とのあいだに
自分たち兄弟は、どこまでも交わらず、寄り添っていく、水平線のようなものだと。
カノンが聖域を出て行ったとき、サガは云った。
空を飛ぼうなんて 悲しい話を
いつまで考えて いるのさ
巨蟹宮の居住空間の、居間に当たる場所で、デスマスクとシュラは、暇な休日の午後を、浪費していた。デスマスクは床に直座りして、地図を片手に戦記物に没頭し、シュラは、唸るデスマスクには我関せずで、ソファーに仰向けに寝そべって、何かしらの活字を読んでいる。時代遅れなLPプレイヤーからは、相変わらず、中島みゆきの歌声が聞こえている。何を隠そう、デスマスクは、中島みゆきの大ファンであった。
暗い土の上に 叩きつけられても
こりもせずに 空を見ている
「なあ、シュラ」
デスマスクは、音楽を遮るようにして、シュラに話しかけた。
「なんだ?」
日本語の分からないシュラには、中島みゆきの歌う意味は分からない。歌声として、耳を素通りするばかりだ。
「暗い土の上に叩きつけられても、こりもせずに空を見ているってなんか、何かを思い出さないか?」
「そうか?」
シュラはデスマスクが何を思い出しているのか、皆目見当がつかないまま生返事をした。
(聞いてねえなあ…)
いや、正しくは、聞いてはいるのだが話が通じてないのだ。
(そういや、昨日は、サガの誕生日だったな…)
雑草のように、逞しい生命力にあふれたその双子の弟に憶いを馳せて、デスマスクは自分が薄情にも上司の誕生日を失念していたことを思い出した。スピーカーからは、相変わらず、朗々と悲しい歌声が聞こえてくる。
あの人が突然 戻ったらなんて
いつまで考えているのさ
凍るような声で 別れを言われても
こりもせずに信じてる 信じてる
「おい、蟹。何か、人の気配がしなかったか?」
突然音楽を遮って、物理的なことには聡いシュラが、本を読みながら、デスマスクに声を掛けた。
「よお。」
現れたのは、半年以上も前に恋人の蠍座をおいて聖域を出たはずの、双子座の弟聖闘士だった。
「カノンじゃねーか!!!」
デスマスクは、立ち上がって、居間の入り口まで突然の来客を出迎えた。シュラは、驚いて視線を本からカノンへと逸らしたが、特に何も言わなかった。
「ああ俺だ。悪ぃか?」
久しぶりに見るカノンは相変わらず、悠然と、不敵に微笑んでいた。
「あぁ人は〜 昔〜む〜か〜し〜」
デスマスクに車を借りてすっかりご機嫌のカノンは、耳に残った歌を鼻歌でリピートしながら、かつて自分も住んでいた、兄の居宮の双児宮を通り過ぎようとしていた。こんな日も兄は教皇宮に詰めて宮を空けていたため、直接は会っていないが、今回帰って来たのは誕生日を迎え、不意に兄の近況が気になったからだ。
(蟹の話では、割と大丈夫そうだな…)
気ままなカノンは、鼻歌を続けながら、擦り切れた革のキーホルダーのついた、デスマスクの愛車の鍵を放り投げた。
「こんな〜に〜も〜」
カノンが空を見上げながら気持ちよく放物線を追っていると、放り上げた鍵が、不意に空中から掠め取られた。
「薄情者」
放物線の延長を追ったカノンは、そこで鍵を握りしめているのがかつての恋人だということに気づいた。
「蠍…」
(空が、恋しい…)
鼻歌の続きを胸の内におさめて、カノンは軽く、深呼吸をした。
「また、俺をおいていくんだな」
思わず視線を逸らしたくなるような空色の瞳が、じっとこっちを見ていた。
「まぁな」
ミロの真っ直ぐな問いかけに、カノンは素っ気なく答える。
「勝手な奴」
ミロは、責めるような言葉とは裏腹な微笑を浮かべて、カノンの脇腹を小突いた。
「ばか、やめろっ…俺には悪の心しかないって、初めから云っているだろーが」
脇腹が弱いカノンは、ミロの不意打ちに、思わず大きく仰け反ってしまう。
「せめて、送らせろよ」
優位に立ったミロは、強気だ。
「来なくていいって云ってるだろうが」
くすぐったがりのカノンは、まだ脇腹をガードしている。
「お前にそう云う権利はないだろ」
「何がだ!」
「じゃあ訊くけど、どこに行く気なのさ」
「帰る!急ぎだ!」
いつの間にかカノンは声を張り上げてしまっていた。
「車、どうやってあいつらに返すの?」
ミロは空色の瞳を細めてにっこり笑うと、人質のキーホルダーを、ぷらぷら振り子のように見せびらかした。
「お前、いつの間に乗れるようになったんだよ?」
いざ車に乗り込むというとき、運転席側からミロに追いやられたカノンはミロに訊ねた。同棲していたころのミロは、運転はしなかったのに。
「俺もいろいろ大人になったの!」
ミロは、助手席のドアを開けてカノンを導きながら、得意げに言う。
「事故るなよ…」
カノンは腰を屈めて狭い車内に乗り込みながら、上目遣いにミロを睨んだ。
デスマスクに借りた中古のフィアットには、壊れかけのカセットデッキと、カーステレオが付いていた。再生ボタンを押すと、やや伸び気味のカセットテープが回り始め、しゃがれた女の歌声が聞こえて来た。
戻るはずのない人 私わかっていて
今日も待っている 待っている
「中島みゆきかよ?」
助手席のカノンが、目一杯焦りを隠して言った。別れた恋人と、二人きりのドライブ。このシチュエーションにこの歌は、気まずすぎるだろう。フィアットの車内はただでさえ狭くて、大男が二人乗ると、密着せんばかりだ。元恋人同士が乗るには、この密着度は微妙すぎる。
「みたいだな」
日本語がわからない運転初心者のミロは余裕で、注意深くハンドルを握ったまま言う。助手席のカノンから見る横顔は、いつになく緊張した面持ちで、進行方向を見つめている。
「どれ」
カノンが一瞬デッキからカセットを取り出すと、
『デスマスクセレクション:ベストオブ中島みゆきメドレー』
と、デスマスクの、意外に几帳面な文字で、書かれてあった。
(車に乗ってる間中、ずっとこれかよ?)
カノンは一瞬気が遠くなったが、気を取り直して他のテープが存在していないか、カセットデッキを停止にして捜索を始めた。
(ねえよ…)
残念なことに、この車には他のテープは存在していなかった。沈黙。ふと、サイドミラーを見ると、ミラー越しに自分を見つめていたミロと、目が合ってしまった。顔を赤らめたミロは、瞬間的に目を進行方向へ戻す。
(…空気が重い…)
外は、こんなにいいお天気なのに。何とかしなければ。カノンはテープは諦めてラジオでもつけようかと、スイッチを押した。
「…つかねえ」
「チューナーごとおしゃかになったってさ」
ミロは澄ました顔で言う。カノンは、沈黙に耐えるか、身に覚えがありすぎて後ろめたさ満載の怨み節を聴き続けるか、選択を迫られた。
(蠍は歌詞が分からないんだし、まぁ、いっか)
カノンは再びカセットデッキの再生ボタンを押した。
孤独な人につけこむようなことは言えなくて
ひきとめた僕を君は振りはらった遠い夜
「…おい」
歌の歌詞に、別れた日の自分たちを思い出して、カノンは頭を抱えた。
「何?」
日本語なんて、こんにちはとありがとうくらいしか知らないミロは、真っ直ぐフロントガラスの向こうを見つめて、問い返した。
「あちーな、エアコンないのかよ?」
カノンは、赤くなっているだろう顔を背けて、窓の外を見た。雲一つない空の下に、凪いだ海が横たわっている。
「海底ぼけしてるなカノン。まだ5月だってのに」
まだ、夏は本番じゃないだろうと、ミロは笑った。
空と君とのあいだには今日も冷たい雨が降る
「なあ、カノン」
海岸線を走る二人の目の前には、地中海が広がっている。
「何だ?蠍」
かつて、二人が一緒だったときと同じ呼び名。
「いい天気だな」
ミロは、眩しそうに目を細めている。
「ばか、眩しいなら俺のサングラス貸してやるって」
カノンは、自分が着けていた薄い茶のサングラスをTシャツで拭いて、ミロに手渡した。目的地のスニオン岬に着いたら、こうしている時間ももう終わりだ。
空と君とのあいだには今日も冷たい雨が降る
君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる
「なあ、カノン」
ミロは、またカノンを呼んだ。
「何だ?蠍」
「サガが、カノンとサガは、空と海みたいなものだって」
「はぁ?ばか、意味の分からんこと云うな」
カノンは窓の外を見たまま、吐き捨てる。
「水平線だって」
サイドミラーにミロが映っているが、サングラスのせいで表情は分からない。
「平行線てことか?で、あいつがお情けで俺に水を恵んでくれるって?」
カノンはミロの真意を量ろうと、わざと嗾けるようなことを言う。
「卑屈な云い方するな!」
ミロは素直に、頬を紅潮させて怒った。
「身を切るような、冷たい雨だろうなぁ」
カノンは謳うようにミロの方を振り向いた。
「…降ってくるのはきっと、冷たい雨じゃなくて、優しい涙なんだと思う」
「……」
カノンは、憎まれ口の続きが言えなくなった。
君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる
「なあ、カノン」
「何だ?蠍」
カノンの、聞き慣れた声。
「お前を海に帰さないって云ったら、俺でも悪いやつになれるだろうか?」
借り物のサングラスをしたミロは、真剣な顔つきで、ハンドルを握りしめている。
「ばか。悪いことなんて、お前には似合わねえよ」
俺のサングラスは意外に似合ってるけどな、と、カノンは言わない。
「なあ、蠍」
別れ際に、カノンの方からミロに声を掛けた。
「どうした?カノン?」
呼ばれて嬉しいミロは、運転席の窓から身を乗り出した。
「帰ったら、あいつに誕生日おめでとうって、伝えてくれるか?」
不意打ちだ。カノンに耳元で囁かれてしまったミロは、赤くなって下を向いたまま、
「ばか、囁かなくても伝えてやるって」
と、カノンの体を両手で押しやろうとした。
「いて、ばか、首締まるだろうが!」
ミロの両手が思いっきり首につっかえて、カノンは悲鳴を上げた。
「ごめん、カノン…!」
思わず顔を上げてこちらを見たミロの瞳には、涙が滲んでいた。
「ごめん、サングラス落とした」
「ばか、買ったばっかだぞ!」
実は、ラダマンティスからの、貢ぎ物なのだが。
「済まんっ!」
ミロが顔に力を入れるとそのまま涙がこぼれた。
「ばか、泣くな!」
窓から乗り出した上半身だけを抱擁して、カノンは、ミロが別れる条件に、「もうばかって云うな」と言っていたことを、今更のように思い出した。
(済まん、蠍…)
「ばかはそっちだろ、煙草臭いぞ!」
抱きしめられたミロはカノンの体からは懐かしい海の香りに混じって、煙草のにおいがすることに気づいた。
「…いつの間に、また吸い出したんだよ?」
ミロと別れた頃には、禁煙していたのに。
「お前の、知らない間に…」
カノンは寄せ合っていた身体を離すと、ミロの顔を覗き込んで、微笑んだ。
この空を飛べたら 冷たいあの人も
やさしくなるような 気がして
この空を飛べたら 消えた何もかもが
帰ってくるようで 走るよ
「なあ、カノン」
帰り道、ミロは、海底の住処に戻っていったかつての恋人に呼びかけた。取り残されても、狭い車内に、息が触れる距離でさっきまで共に過ごした彼は、恋人だった頃と、不思議なくらい変わらなかった。
「潮風が気持ちいいな…」
助手席からの風に煽られて、カノンの残り香がする。ミロは、アクセルをほんの少し深く踏んだ。
飛べる筈のない空 みんなわかっていて
今日も走ってゆく 走ってく
今日、再会したときに彼が口ずさんだ、あの歌がステレオから流れている。
地中海に日が沈む。
凪いだ海を、波が洗い始めた。
今日の海は、夢のように空が恋しいと哭いている。
きっと、彼も同じ気持ちだと、ミロは思った。
あぁ人は 昔々
鳥だったのかもしれないね
こんなにも こんなにも 空が恋しい
この空を飛べたら、空と君とのあいだに
作詞作曲・中島みゆき
2007/6/4 Rei @ Identikal