en manque...


 復活祭が終わって初めての出勤日、シュラが教皇宮の仕事場から戻ると、彼の自宮磨羯宮は暗くて、なかの様子も朝出る時と変わらなかった。

(まだ、帰っていないんだな…)

シュラは誰もいない玄関の灯りを点けると、上着をハンガーに吊るした。



 居間に向かう前に台所に寄った山羊座は冷蔵庫を開ける。

(しまった…)

ギネスが切れているな。と、山羊座は小さく舌打ちして黄色い液体の入った冷えたコロナの小瓶を取り出す。櫛切りにして皿に並べたライム一切れも忘れずに。

(最近毎日飲んでるからな…)

普段はそんなに晩酌をする方ではない山羊座だったが、ここ10日間ほどは毎日のように飲んでいた。今も、連休前に買い込んだギネスビール1ダースがすっかりなくなっていて、驚いたところだ。お気に入りのコロナも、1ダース強ストックがあったのが、もう冷蔵庫にある2本しかない。


 (帰ったときにギネスがなかったら、あいつが怒るかな…?)

シュラは、櫛切りのライムで蓋をしたコロナを片手に、居間の扉を開ける。昼間でも薄暗い磨羯宮の居間は、夕暮れを過ぎた今はもう、真っ暗で。ふと、暗闇に見知った男の顔を憶う。

(やはりいないか…)

暗い居間に小宇宙を探ったあと、山羊座は中に足を踏み入れて、廊下の灯りを頼りに奥のソファに腰を降ろした。



 蟹座のデスマスクは聖戦後初めての復活祭を、シチリアのマンマのもとで過ごしていた。自分の生母を「世界で一番大切に想う女性」と公言して憚らない彼は、十二宮の戦いで命を落とすまでは、聖闘士仲間としてはかなり例外的に、家族との繋がりを保っていた。

「復活の喜びをマンマと分かち合ってくるわ」

勿論、自分の死と復活のことは伏せたままで。とデスマスクはそう言い残してシチリアに帰っていったのだ。


 デスマスクがシチリアに帰ること自体はそんなに珍しいことではなかった。それに、デスマスクと離れていることも、決して珍しいことではなかった。寧ろ、一緒にいることの方が珍しかったくらいだ。聖戦後復活するまでは。


 (そういえば、このところ、気味が悪いくらい一緒にいたような…)

復活してからというもの、お互いの勤務時間以外はほとんどデスマスクと過ごしていたことに、シュラは思い当たる。そう、彼と今のように暮らし始めたのは割と最近のことなのだ。

(最近の、ことなのだな…)

自分たちが女神の御加護により復活したのも。と、シュラは独りごちて、小瓶の飲み口にあるライムを押して沈めると、ビールに口をつけた。



 静かな復活祭だった。いつも煩わしいくらい付き纏ってくる相方の不在は、シュラに久しぶりの静寂をもたらしていた。


 (静かだな…)

お前も来たければ来ても良いが…と、遠慮がちに訊いたデスマスクに、読みたい本が溜まっているからと、断ったのはシュラだった。身辺を騒がす蟹がいない隙にと買いためていた本をソファのサイドテーブルに並べているが、気乗りがしなくてそんなに読めなかった。面白いと思えないのだ。

 連休に入る前は仕事の後独りで居間にいるのも気が滅入るので、結局、寝室にデスマスクが置いていった戦記物を持ち込んで、ビールを飲みながら読んで寝る、というどうしようもない親爺な生活をしていた。しかも、いつもは苦味が気になってあまり飲む気がしない、ギネスが無性に飲みたくなって連休前に急いで買いだめに走ったほどだ。

(…あいつが飲んでいるときは、よくこんなの飲むもんだと、思っていたんだがな…)

シュラはまた、今日も無性にギネスが飲みたいなあと思いながら、久しぶりの仕事で疲れた体で伸びをした。片手にもったコロナの瓶が揺れて、中の液体がたぷん、と音を立てた。



 「復活祭オメデトウ」




 どこからともなく降って来た声にシュラはふと我に帰る。

「…よぉ」

眼を開けると、目の前には見慣れた銀髪の男が立っていた。シュラは数度瞬きをする。ソファの脇の灯りが点けられているようだ。居間は先程よりも少し明るかった。



 「デスマスク…」

シュラは目の前の男の名を呼んだ。

「…元気だったか?」

「……」

「何か云えよ」

無言のシュラにデスマスクは焦れる。

「…見ての通りだ」

シュラは面倒そうに応えた。ただ、ろくに食事をしていない体は、10日見ないうちに少し痩せて見えた。


 「痩せたな…」

「断食をした」

割と熱心なカトリックのシュラは、復活の感謝の意味を込めて、復活祭前の一月ばかり、甘いもの断ちをしていた。

「甘いものだけだろう?」

それにしては痩せ過ぎだと、デスマスクは馴れた躯を背中から腰へと撫で下ろして確かめた。

「…食欲がなかった」

骨張った尻に手が掛けられたことにやや表情を硬くして、シュラは吐き捨てるように言うと、沈黙した。

「さみしいならさみしいって、言ったらどうだ?」

「……」

「莫迦、何て顔しやがる…」

「……」

そんなにおかしな顔をしているか?と、訊くよりも先に。

「何も云わなくていい、体に訊いてやる」

嘯くデスマスクが山羊座の長いすんなりした首筋を舐める。

「莫迦はお前だろう?」

シュラは、まんざらでもないというように蟹座の顎先を掴んで、自分に向けた。



 「…欲しいか?」

上着を脱ぎ捨てて、唇を潤すように舐めたデスマスクが、シュラに問い掛ける。

「否…」

シュラは一瞬言葉を呑んで。

「…今日は抱かれたい」

と、呟いた唇でそのまま、腐れ縁の男に接吻をした。



 「…これが…終わったら…」

寝台の上で汗ばんだ肌を擦り合わせていると、耳元でシュラが呟く。

「何、だ?」

既に余裕をなくしたデスマスクが続きを促す。

「…ティラミスが食べたい」

小声で強請ったシュラにデスマスクは微笑って。

「ああ…作ってやる…から、今は…集中してろ」

後頭部に回した手で指通りの良い黒髪を撫でる。

「復活祭まで甘いもの断ちなんて、甘党のお前には地獄だったろう?」

よく我慢したな。と蟹。

「…出来なかった」

と悔しそうに、そして少しだけ恥ずかしそうに、山羊座は言った。

「お前がいないと耐えられない…」

途切れる息の合間に呟いた山羊座はいつもよりも随分余裕がなくて。

(可愛いこと云うじゃねえか…)

気を良くしたデスマスクは、帰って来て良かったなあ、と笑みを浮かべて、山羊座の華奢な肩を軽く噛んだ。






繰り返される「復活」の言葉に、何度も帰らないあの人を憶った


不安定な心が錨を下ろして


憂鬱な祝日が明けてゆく








2008/3/29, Rei @ Identikal



en (etat de) manqueは"having withdrawal symptoms(禁断症状がある)"という意味があります。