Idealismus
「こうなりたいと願う理想像が、俺だ」
「カノンではないか?帰ってきていたのか?」
しばらく見ないので大方、海底にでも行っているのだろうと思っていた男が、双子座の聖衣を着て歩いてきたので、アイオリアは思わず声を掛けた。海龍として海将軍を兼任するこの男。正直、この男のことは好きではない。というか、眷恋(肉体関係のある幼馴染み)の蠍座を奪われたのでただ逆恨みしているだけなのだが。しかしそれでも、久しぶりに見かけたその美々しい姿と匂い立つような良い男ぶりに、惚れ惚れして気がついたら駆け寄っていたのが本当のところだ。
「活躍しているようだな?」
アイオリアとカノンは、宮廷の見晴らしの良い回廊で少しの間会話を楽しむことにする。端的に云えば、サボタージュというやつである。
「そうか?」
カノンは結構、自分に対する周りの評価に鈍感だ。ひたすら実行の男なのだ。
「ずっと見なかったので、海底に行っているのだと思っていたのだが…」
「ああ、そうだ」
(お陰で蠍が放ったらかしだ…)
そう、最近海底への行き来が忙しすぎて、同棲している年下の恋人に、ろくに構ってやれていないことを、密かに気に病んでいるのだ。けなげな蠍は殊勝にも、我慢して待っている。
(しかし、こっちに居たら居たで、海底に行っていたときの分の仕事が溜まっていて、どうにも時間が作れんのだ…)
「お前がそんなに勤勉だとは知らなかった。やはり、サガの弟だな」
と、アイオリアは褒め言葉のつもりでとんでもない失礼なことを言った。彼自身、同じ聖闘士に兄を持ったことがあるので、親愛を込めたつもりであったのだが。カノンは、さすがあの筋肉バカの弟だと、呆れている。
(なんちゅう失礼なガキだ)
とはおくびにも出さず、カノンは彼の優秀な双子の兄と同じ顔で、同じような微笑を浮かべた。
「生憎だが、俺は勤勉なのではない。女、男に限らず、仕事にも引く手数多なのだ」
(…お前のようなガキとは違うのだ!)
アイオリアは、恋敵の男が彫りの深い顔立ちに艶やかな微笑を浮かべている様を見て、再び惚れ惚れする。
(これでは、ミロが夢中になる訳だ…)
敵わない。彼の勤勉なる双子の兄、教皇代理のサガでさえ、このような色気は持ち合わせてはいない。
「ミロは、お前に理想を見ているようだ。お前の話ばかりしている」
アイオリアは、思わず日頃の嫉妬を忘れて言ってしまった。この男が海底に行っていない間、彼の年下の同棲中の恋人のお守りをさせられているのは、歳の近いアイオリアたちであった。ミロは本当によく、この男についてしゃべった。本当に、いつも。
「蠍は知らんが…俺にとっては、こうなりたいと願う理想像は、俺だ」
カノンは、愛蠍が自分のいないところでどんなことを吹聴しているのかと半分照れ、半分自虐でそんなことを言った。恋敵には傲慢で嫌な男だと、思われた方がいい。
(えらく自信家だな…)
この男らしいが、と、この男が好きではないアイオリアは、素直に眉をひそめる。
「俺には俺しかいない。これが俺が持っている、全てだからな」
(…じゃあ、あいつはどうなるんだ?)
予てから、この男の現在の恋人を恋うていた獅子座は訊ねたかった。あの、美しく強い教皇代理の、突然降って湧いた如く現れた同じ姿をした双子の弟。彼に奪われた初恋の、蠍座のことは、どうなるのかと。
「…ただの自惚れだがな」
自らが放った独善的な発言に、自ら返す、この双子座の弟聖闘士。やはり、次男坊は虚勢を張るのが苦手である。
(…あいつがいなかったら、此処にいるかどうかも、分からん)
この、心の声は口には出さない。実際、海界の中枢にいる自分がいちいち聖域で、神殿の公務をこなしていること自体、バカバカしい。
「良いんじゃないか?自惚れても…」
あんたは、十分に良い男だと思う、と云わない。癪に触る。
(……)
云われた男の方は、答えない。ただ無言で、自分と若い恋人の、ままならぬ未来を想っていた。
「だが、そんな自惚れに浸っていられるほど、俺も若くはない」
未だ十分に若く美しいその男は、乾いた声で、吐き捨てた。
「あいつと、仲良くしてやってくれよ?」
男はその場を去りながら云う。
「あ、ああ」
面食らったように答えるアイオリア。だが、アイオリアは分かってしまった。この男の、この男なりの、愛着や、想いの形。
(何でいきなりそんなことを言い出すんだ?)
遠ざかって行く男の後ろ姿。その、屈強でありながらしなやかな背中を眺めながらアイオリアは、奔放な自信家に見える彼の、孤独に触れたような気がした。
(…あいつが俺の全てだなんて、もしそうなったとしても、口が裂けても云わん)
いつも、こうなりたいと願う理想像を追い求めて、手に入れてきた。
自分が、一介の小蠍にこのように囚われて、理想である自分自身の姿を、見失うなど。お前を、失って、自分を、失うなど。
自分が今、お前を失ったらどうなるか、考えたくない
(こうなりたいと願う理想像が、俺だ)
なんて、こんな情けない自分には、口が裂けても云えない。
January~February, 2007 Rei @ Identikal