まどろみのてのひら




神に捧げられる生け贄はいつも羊


導きに従わない山羊を、神は愛されないから


迷える仔羊を神はお救いになる


そして、黒い山羊は悪魔



 それは昔、聖域に来るずっと前。まだ親元にいた頃。イタリアの平均に違わないカトリックの家庭に育ったデスマスクは、誰かにそう教わったのを覚えている。




 …黒い山羊は悪魔…




 けれども、その悪魔は、眼が澄んでいた。



 虹彩もはっきりしないほど黒い、黒目がちな瞳をして。好きだったあの人が死んだ日にも、一滴の涙さえ零さず。神からの借り物の右手を振るった。



 彼の、疵を負った右手は何故か今、自分の手のなかにあった。

(…死んでしまいたいとか、自分が殺されれば良かったとか、思ってるんだろう?)

傷ついた彼の細い指を掴んで、何か言おうと思ったけれど、声は出なかった。

(…あの人が死んだのは自分の所為だとか、思ってるんだろう?)

腕のなかの彼の、いつもさらさらの黒髪は汗と脂と埃に塗れて。

(寝言言ってんじゃねぇよ…)

ああ、寧ろ、このまま眠っておしまいよと。



 従順な山羊座を、神はどうしてもっと、愛さないのだろう?

(つらいだろうこんなときにも泣けずに…)

神の道具として無心に生きようとする彼はどうして、こんなに傷つかなければならないのか。

(あいつはきっと必死に、あなたに仕えているのに…)



 (神よ、どうか彼を…)

彼を、お救い下さい。せめて、束の間の安らぎを。デスマスクはいつの間にか、神に祈っていた。



 「シュラ…」

漸く口を開いた彼は、腕のなかの華奢な黒髪の少年の名を呼んで、掴んでいた右手をもう一度、優しく包むように握り直した。

「…なあ、少し寝めよ」

ここにいてやるから。と、デスマスクはそうは言わなかったけれど、その後も触れている手は、繋がれたままで。

「……」

近くで見ると長い、黒い睫毛の影で、瞳が閉じて。何も云わない山羊座が、いつしか眠りに墜ちる。



 デスマスクはもう一度、彼の手を見た。



 この手は果たして、本当にあの人を殺めたのか…分からなかった。

(だけど…でも…だから…)

おやすみなさい。せめて、この微睡みの後、短い夢が覚めて、現実に戻るまで。






Feb~Mar 2007, revised Apr 2008, Rei @ Identikal



"l'agneau de Dieu"=「神の仔羊」

洗礼者ヨハネの言葉「見よ、神の子羊("Ecce, Agnus Dei")」より。