「他人事にしてたら被害を被るのは俺だからな」
「あの馬鹿野郎…」
呟いた声はどうしようもない涙声だった。
ぼやける両の眼を拭うと確かに自分は泣いていたけれど、涙の理由は分からなかった。
体中疵だらけで、無理矢理開かれた体はきっと節々が痛むはずだけれど、不思議と痛みは感じなかった。
「嘘つき」
まとめてしまえばそんなことなんだろうけれど、自分の感じている喪失感の全てが、こんな簡単な言葉ひとつで片付くなんて思えなかった。
(…胸のうちにしまっておこう)
黒いあの人に脚を開くことも、絶望と孤独で狂いそうなあの人を、貫くことも。
「俺は、正義なんて知らない」
女神なんて、正義なんて、知らない。
(サガが泣いてる…)
彼にとっては、見ず知らずの赤ん坊よりも、そのことの方が大切なことに思えた。
「おい、デスマスク」
ボロボロの格好のまま階を降りて自宮に向かう途中、磨羯宮の前で、蟹座は麓の鍛錬場から戻ってくる途中らしい山羊座に呼び止められた。
「…何て表情してる」
抑揚の薄い彼なりに、驚いた口調で。
「……」
自分から話しかけてくることのほとんどない山羊座から、珍しく声を掛けられている。何か応えたくて、自分のなかいっぱいの感情を、誰かにぶつけたかったのだけれど。
(…云えやしない)
このことは、胸のうちにしまっておくと決めたのだ。黙りこんだ蟹座に、山羊座は言った。
「…大丈夫か?」
山羊座の声も顔も、いつも通り表情がなかったけれど、でもいつもより穏やかだった。
「随分優しいこと言うじゃねえか」
凡そ世間並みのことには無頓着だと思っていた山羊座にそう云われて、デスマスクは皮肉めいた口調で言った。
「他人事にしていたら、被害を被るのは俺だからな」
無愛想に呟いた顔は、一切表情を変えず。
「俺たちがしっかりしなければ、下のあいつらがますます不安になるだろう」
ただ、暗にあの、年長の二人の不在を語ったとき、漆黒の瞳が少しだけ伏せられた。
哀しみの色が滲むような、深い瞳の黒。
(あの教皇命令は偽物だと、もしあいつが知ったとしたら…)
デスマスクはふと、彼が好きだったあの人は、彼の刃で死んだのだったと、思い出した。
「俺は、正義なんて知らない」
女神なんて、正義なんて、知らない。
(あいつ、泣くだろうな…)
今、蟹座にとっては、見ず知らずの赤ん坊よりも、そのことの方が大切なことに思えた。
(出来れば墓場まで持っていこう…)
出来ることなら、彼にはずっと、知らないでいて欲しい。
…他人事にしてたら被害を被るのは俺だからな…
彼の言った一言を、反芻してみる。
(…死なば諸共っていうじゃねえか)
他人事に出来ないなら、せめて。一緒に…。
Feb~Mar 2007, revised Apr 2008, Rei @ Identikal