君に声が届くという幸せ
彼はその感情の、名前を知らなかった。
傷ついた山羊座を見守るうちに湧き起こった、その感情の。
「シュラを頼むよ」
あの人が死んだ今も、あの人の言葉は、耳に残ったままで。
同じように、物云わぬ彼の、あの黒い瞳は、自ら手にかけたあの人を、忘れていないのだろうと思う。
(なあ、シュラ…)
「君に声が届くという幸せ」、なんて、笑わせるもんだと思う。
決して遠くはない場所で、生きているのに。
(…名を呼ぶことすらままならない)
「君に声が届くという幸せ」、なんて、くだらないと思う。
それでも、くだらないことでも良いから、彼の声が欲しいと。
手を伸ばした。
「シュラ」
名前を呼びながら髪を撫でると、強張っていた躯の、緊張がわずかに緩んだ。
腕のなかで、少しずつ身を任せていく、黒髪が、揺れる。
「おい、シュラ」
事の終わりに蟹座は、もう一度、山羊座の名を呼んだ。自分より幾分幼い、痩せた体躯。声もなく達した震える躯を抱いて。
不確かな言葉はいらない。ただ、名前を呼ばせて。肌が触れる距離で、声を聞かせて欲しい。
(…なあ、聞こえてるか?)
今、腕のなかで、自分を睨みつけている、その、黒い眼が欲しい。
Feb~Mar 2007, revised Apr 2008, Rei @ Identikal