できる筈のない痣
山羊座の聖闘士シュラが、二週間も続いた戦闘の日々から漸く解放されて自宮の磨羯宮に戻ると、何故か、招かざる客が居座っていた。
「デスマスク、居たのか」
居間の掃き出し窓を全開にして、床に胡座をかいて煙草を吹かしていた不法侵入者は、悪びれずにこちらに視線を向ける。
「ああ」
遠征帰りで疲労の溜まっているシュラは、早く寛ごうと、窓際の銀髪の男を無視して、ソファに急ごうとした。
「…おい、離せ!」
不意に、シュラは視界の外から強い力で体を拘束された。
「離すか!バカ」
背後で自分を羽交い締めにする銀髪の男。頰に疵。殺人も不法侵入も強制猥褻も立派な前科持ちだ。
「絨毯が…」
男を睨み遣った視線の先に一筋の煙。さっき男の座っていた窓の辺りで、彼が投げ捨てた煙草が、絨毯を焦がしていた。
「気にすんな。直、消える」
男は、シュラを羽交い締めにしたまま、首筋を舌で愛撫する。熱い吐息は、煙草の匂いがした。
シュラは抵抗しなかった。この二週間の殺し合いで使い果たして、気力が残っていない。
(…消える、訳が無いだろう)
開け放たれた窓からの風に煽られて、こちらまで煙っているのに。ただ、ぼんやりそう考えて、早く眠りたいと思った。男は、抗わないシュラを戒める腕を緩めて、背中越しに抱いた。
「シュラ…」
彼は耳元で、苦しげに、呻くように名を呼んだ。
(煙草の、匂いがする…)
抜け殻のようになったこの体を抱いて、男が満足するなら、抱かれてやっても良い、と思う。
この男が自分に、焦がれている、とでも云うのなら…
シュラが目覚めると、自分の宮の、自分の寝室の、天井が眼に映っていた。シュラの寝室は屋根裏で、天井が低い。
(…疲れすぎて夢でも見たのか?)
自問する。記憶が正しければ、顔見知りの、銀髪の不法侵入者に、帰って来るなり犯されたはずだった。
(……)
寝返りをして隣を見ると、思った通り、こちらに背中を向けて眠っている、やつがいた。
(…そう、絨毯が…)
ふと思い当たって、水を飲みに下へ降りることにした。
閉じられた大きな掃き出し窓の外では、朝日が、昇ろうとしている。居間で、水を飲みながらシュラは、絨毯の焦げ跡を見つめていた。
寝室で見た、あの男の体を思い出す。
黒く変色しかけた、脇腹の鬱血痕、まだ新しげな背中の引っ掻き傷。
自分の知らない、昨日の自分には残すことの出来ない、痕跡。
できる筈のない痣。
(焦がれる…)
今まで知らなかった置き火が、胸を焦がすようだ。グラスの水を焼け跡にぶちまけて、両手で顔を覆う。粉々になることも無く割れたグラスは、鈍く転がった。
(…分からない)
ただ、男の舌で散々愛撫を受けただろう体は、指先からでさえ、煙草の匂いがした。
February~March, 2007 Rei @ Identikal