そっと目を逸らした先



「何なんだろう、大人の関係って…」


 週末いっぱいの二人分の食料を大型のスーパーに買いに出たカノンとミロは、スーパーの入り口付近の雑誌売り場で、「検証:大人の関係」なるタイトルに目を留めた。というか、日頃さんざん子供扱いされているミロの目が釘付けになった、という方が正しい。ミロは一瞬どうしようもなくその雑誌が欲しくなったが、カノンに目で却下された。カノンの躾は完璧だ。

「大人の関係が何たるかを知りたければまず、その本を棚に戻せ」

ここからは、ソクラテスとパイドロスの問答の始まりである。お題はもちろん、

「大人の関係って…」

「何だと思う?」

「失楽園」

「あほか」

「愛ルケ」

「バカ」

「あ〜もう、大人じゃないんだからわかる訳ないだろう!」

ミロは早々に降参をする。

「もうギブアップか、情けないパイドロスだな」

「何パイドロスって?」

「……」

カノンは言葉を失う。プラトンを知らんのか?と説教しようとしたが、ミロはバカなままが可愛いのでしないことにする。


さて、買い物。まずは青果コーナー。

「あ、これ欲しい、買ってもいい?」

ミロは野菜には目もくれず、フルーツをがんがんカートに放り込む。マンゴー、オレンジ、そして真っ赤な林檎。

「バカ、量ってから入れろよ」

ミロが聞かずに旅に出てしまったので、カノンは仕方なくミロが入れたフルーツも秤にかける。

ミロはだだっ広い店舗のなかをあちこち駆け回ってはカノンが押す大きなカートにめぼしいものを積み上げていた。カノンはまともに3日分の献立を考えながら、ミロが迷子になるのではないかと気が気ではない。ふと手元を見ると、カートの中にはブラックチェリーヨーグルト、みかんヨーグルト、梨とチョコヨーグルト、無花果ヨーグルト、七つのベリーヨーグルト、、

「おい、ヨーグルトばっかりこんなに買う気かよ?」

戻ってきたミロに、教育しなければというつもりで軽く叱ると、

「え〜いいだろ。駄目?」

と、若干上目ですり寄られ、あえなくノックダウン。

「全部お前が食べる分か?」

「うん」

「…そうか」

全部500グラム容器だぞ?と心の中で突っ込んで、哀れなカノンは自分の分のブラックチェリーヨーグルトを仕入れに、ほとんど満杯になったカートを押して、ヨーグルト棚に向かうのであった。

「1、2、3、と」

三つ目のブラックチェリーヨーグルトの容器をカートに入れていると、ミロがチョコレートを抱えて戻ってきた。ミロの大好きな、Lindt & Schuprungli のオレンジインテンスと、苦手なはずの、カカオ99パーセントのブラックチョコレート。

「お前、これは?」

「ああ、これは、アフロに…」

(…アフロディーテ?)

「アフロが好きなやつだから、今度持って行こうと思って。最近見てないけど、この頃元気ないみたいだし」

ミロは心配げにいう。ミロにとって幼い頃から世話になった上、性の手ほどきまで受けた近しい存在のアフロディーテは、兄みたいなものなのだ。(<どういう兄だ)

(…元気がないのか…そういえばこの前も、具合が悪そうだったな…)

カノンは、先日魔羯宮で飲んだときに、顔色が優れないアフロディーテが早々に帰ってしまったのを思い出して、顔を曇らせた。彼の顔色が優れなくなったのは、自分の顔を見た瞬間からだったような気がして、罪悪感も、身に覚えもあった。

「そうか、じゃあお前、様子を見に行ってやれよ」

「うん…そのつもり」

ミロはチョコレートを、カートの一番上に乗せた。カノンは見覚えのあるパッケージを、まじまじと見る。

(このチョコレート、サガも好きだったな…)

カノンはレジに向かう途中で、同じパッケージをもう一つ、素早くカートに入れた。


「げ〜っ、この荷物、全部上まで持って上がるのかよ?」

先程買い込んだ大荷物を抱えて、聖域の十二宮の階の下に立ち、ミロは天を仰いだ。

「当たり前だろう。第一、お前が後先考えず買い過ぎるからだ!」

重くて持って上がれないなら今夜は、その辺の牛や蟹に泊めてもらってもいいんだぜ、勿論お前だけな、とカノンはミロを意地悪くけしかける。

「ん〜!!お前、黄金聖闘士の俺に向かって何を無礼な!」

ミロがふくれ面で言うのが、可愛くてたまらない。カノンはおい待てよ、と階に向かって行くミロを呼び止める。

「階段上がりながら、さっきの話の続きしようぜ。オトナノカンケイ。」

そしたらきっと、あっという間だからさ。カノンは荷物を片手に持ち替えて、ミロの頭を撫で、その手を背中にまわすと、軽くミロの肩を抱いた。


「オトナノカンケイって要するに、突っ込んで出して入れて抜くだけじゃないって、ことじゃねえの?」

階の途中で、ミロとカノンは弁舌を振るう。

(は?何?…それ以外に何かあるってのか?)

カノンの言葉にミロはすっかり考え込んでしまい、カノンは吹き出さずにはいられない。

「くくっ、おもしれ〜」

ミロは、吹き出した年上の恋人に侮辱された気がして、言い返さずには置かない。

「大体何だ?カノンは大人なのか?」

「…何とも云えないな、こんな精神年齢12歳の、ハタチのベイビーと一緒にいるんだから。」

「…」

(…いじめかよ…?)

ミロが拗ねてそっぽを向くと、カノンはまだ笑いながらミロの肩を抱く手に、少々余分な力を加えて、引き寄せる。

「大体、大人っていうのは…」

ミロは拗ねながらも、自分が知っている数少ない大人全般についてしゃべり始めた。そのときだった。

(匂いが…)

階の、遥か上の方から風に乗って漂ってきた、憶えのあるこの香り。足を止めず、カノンは一瞬、年下の恋人から、目を逸らした。話に夢中のミロは、なおもカノンにおかまいなく、しゃべり続けている。遠く、カノンの視線の先には、女物のトレンチコートを着込んだ美貌の聖闘士が、黒いスカーフをなびかせて、階を降りて来る。左腕にはボストンバッグが一つ、ぶら下がっている。

(旅行?)

反射的にそう思うとほぼ同時に、カノンは既に視線を、自分に熱心に語りかけてくる愛くるしい恋人に戻す。

「…てさ、だから…」

相槌を求めるミロが多少上目遣いで見たので、カノンは微笑みをこぼした。

「どうしたの?」

「お前がそんな目で見るから…」

「…?」

一瞬、ミロを見つめていたカノンの視界を黒い物体が過った。

「ぼんそわー、お二人さん」

ミロはほんの軽くではあるが、革手袋で後ろからはたかれて、面食らっていた。

「悪かった、ミロ。あんまり気づかないからちょっと驚かしてみたくなったのだ」

すっかりフランス映画の女優といった格好の魚座の聖闘士が、くすくす笑いながらミロの頭を撫でた。すっかり二人の世界でねえ、とからかう彼に、カノンは揶揄の応答を忘れない。

「魚、どこに回遊する気だ?」

「ああ、ちょっとそこまで」

アフロディーテは婉然と微笑んで、黒い手袋をひらひら振りながら、別れを告げた。

「お土産は期待しないでくれたまえ、極秘任務だから」

階を降りる後ろ姿で言い残した彼は、振り返らない。心なしか足取りも軽く、見ているこちらが、足を踏み外さないかと、不安になるくらいだ。

(サガの手袋だった…?)

止めていた足を再び階の上へと進ませながら、カノンはアフロディーテが右手に持っていた、革手袋のことが気になった。

「あーもう、何話してたか忘れた…」

アフロに会えたのは良かったけど、最近全然見なかったし。と傍らで呟くミロの頭を、優しく撫でて。

「…大人の関係だろ。今夜たっぷり味あわせてやるからな」

(は?それだけじゃないのが大人の関係だって、さっき言ったくせに)

ミロは、カノン、ふざけるな!と軽く反抗する。カノンは、傷つけてしまったかもしれないと思っていた魚座が、相変わらず華のように微笑んでいたのを見て、小さな胸のつかえが下りた気がしていた。



(あいつが、いつもああやって笑っていますように…)

天蠍宮への分かれ道で、カノンはもう一度、階の下へ、視線を遣った。既に夕闇が立ちこめて、ただ、彼のトレンチコートが遥か下で、白い影を翻すのが見えた。






January, 2007 Rei @ Identikal