疾走する薔薇
「愛」はすなはち馳せ走りつ、馳せ走りながら打ち泣きぬ
聖戦が終わり、聖域に黄金聖闘士が復活して間もない頃。かつての愛人サガと疎遠になったアフロディーテは、柄にもなく塞ぎ込んでいた。
「アフロディーテにハーレーは似合わないよ」
大型のバイクが欲しくて、バイク乗りの牡牛座に相談した、大型と言えばハーレー・ダヴィッドソンしか知らない魚座に、アルデバランはそう言って笑った。
「俺が見立ててやるから、一緒に買いに行こう」
「お願いしても良いかい?」
気前の良い牡牛座の申し出に、アフロディーテは綺麗な微笑を返した。
或る晩春の午後、日が傾きかけた頃、アフロディーテと牡牛座は、出掛けた。
「完全防備だ。これじゃ灼けようがないだろう」
美白命のアフロディーテは陽射しが気になったが、案内人のアルデバランがジャンプスーツとヘルメット持参で双魚宮まで迎えに来たので、大人しくついて行くことにした。
「似合うなあ。思った通りだ」
「わざわざ買ってくれたのか?」
満面の笑みを浮かべて満足そうにいうアルデバランにアフロディーテは問う。
「この前ブラジルに戻ったときに買ったんだ」
「しばらく見ないと思ったら、また帰っていたのか」
「女神のご命令でな」
「…女神の?」
「ああ、あちらに財団の南米支部を作る気でおられるようだ」
ほら、最近あの辺は景気が良いから。階を下りながらそんな世間話をしていると、いつしか麓近くの巨牛宮に着いた。
バイク置き場には、牡牛座の自慢のハーレーと、ヘルメット。それに古びたギターのハードケースが用意されていた。
「さあ、俺が運転するから、お前はギターを持っていてくれ」
とギターを渡される。大男が持つと小さく見えたギターは、魚座が持てば普通の大きさだった。
「行こう」
1500ccのバイクを軽々と押して階を下りる背中を。
「…バラン!」
抱きかかえていたギターを担ぎ直してアフロディーテも追う。
「足下に気をつけろよ」
後ろから駆けてくる魚座に振り返った牡牛座は、いつもと変わらない笑顔だった。
(隠し事をしているくせに…)
こんな表情をしてみせるなんて。アフロディーテには、財団の南米支部の話も、ブラジル出張の話も初耳だったのだ。
(私用で帰っているものとばかり思っていたのに…)
復活祭のときも長い休暇を取ってブラジルに帰っていたのも、その為だったのかもしれない。
(…君が私に嘘をつくなんて)
実際には嘘でさえもない、こんな小さな隠し事ひとつで、13年間大嘘を突き通した自分が動揺するなんて、おかしなものだと思う。
「アフロディーテ、乗れ!」
バイクに跨がってエンジンを吹かした牡牛座が自分を呼ぶ。
「ああ」
すぐに。後ろに自分が飛び乗ると同時に発進する。風圧に負けないように背中にしがみついて、向かい風を受ける。
「…久しぶりだな」
風に遮られながらも、何とか聞き取れる声。初めてアフロディーテに風の気持ちよさを教えてくれたのはやはり、この牡牛座であった。
「きれいな色だな、お前に似合う」
アテネのバイク屋で、アルデバランが魚座に見立てたのは、トライアンフ社のボンネビルという、クラッシックな機種だった。
「これが良い。これにしよう」
色は渋い赤で、クラレットというらしい。
「そうだな」
魚座も彼の選択に特に異存はなかった。
「では、これを」
牡牛座はズボンの後ろのポケットから財布を取り出して、バイク屋の主に声を掛けた。
「…バラン?」
「気にするな、餞別だ」
自分が持つはずのバイクの代金を、明らかに、連れが払おうとしている。止めようとするアフロディーテを、アルデバランは逆に制した。
(…やはり…)
「女神のご命令だ。俺は、故郷に戻る」
俯いて押し黙った魚座に、牡牛座は優しい微笑を向ける。アフロディーテは、下を向いたまま首を横に振った。
夏を待つ街に陽は長く射して、夏時間の長い宵を満喫する人々が、通りに溢れていた。
広場に面した聖堂の傍にバイクを止めて、二人は聖堂の塔の上にいた。アルデバランの腕のなかで、ボサノヴァギターが鳴り、音が風に溶けた。
「気持ちいいだろう?」
「……」
不機嫌な魚座は返事をしない。
「ボサノヴァには、風が必要だと、俺は思うんだ」
「…ブラジルの?」
意地の悪い言い方をしたものの、アフロディーテは表情までは作れなかった。
「そうとは限らないさ」
「…一体向こうには何があると言うんだ」
ブラジルで何をするのか、しているのか、と、素直に訊けない。
「さあ、そうだなあ」
拗ねたきり機嫌を直さないアフロディーテに、アルデバランは仕方ないなというように笑った。
「グラード財団傘下の有機農業の会社…南米各地に広い農場を沢山持っているんだ」
「…他には?」
初耳だ、と先程より幾分穏やかに、アフロディーテは訊いた。
「…ブラジル産の石を使った宝石も作っているな。ブラジルの有望なデザイナーにお金を出して、海外でも販売している」
大振りで豪華なんだ。お前にも、きっと似合うだろうな。と牡牛座はまた笑った。
「…ねえ、バラン。私も連れて行って欲しいんだ」
アフロディーテの唐突な発言に、牡牛座は思わずギターを弾く手を止めた。
「…おい、どうした…?」
何を言い出すのだと、咄嗟のことに笑顔を作れない。
「…バランは私を独り占めしたくはないのか?」
魚座は、幾分不服そうに言う。
「そうだなあ…」
牡牛座はそれが可愛くて、気がつくといつものように穏やかに笑っていた。
「だけどお前は、あの人の傍にいるときが、一番綺麗だからな…」
「バラン…」
(でも、私はもう、ここに居てもあの人の傍には居られないんだ…)
言葉を続けられないアフロディーテを、アルデバランは優しく抱き寄せた。
「もう一度あの人の傍に帰れ、アフロディーテ」
「…戻れない」
アフロディーテは、気がつけば、聞き分けのない子供のように、涙を流していた。
「戻れるさ」
牡牛座は、そんな魚座をあやすように、髪を撫でて言う。
「あの人には、お前が必要だ」
(……)
アフロディーテにはうまく言葉が見つからなかったが、それはきっと、ずっと誰かに云って欲しかった言葉だった。
「アルデバラン…今まで私はずっと、愚痴ばかりを君にこぼして、大切なことは何一つ云わなかった」
君を利用しただけだ、と、アフロディーテは言った。自分より随分長身の、牡牛座の目を、真っ直ぐに見上げて。
「知っていたさ。あそこにいるのが誰かなんて」
対する牡牛座は、少しも揺らがない。
「私は、君を騙していたんだぞ?」
どうして怒らなかったのだと、思わず声を荒げる。それは、まるきり自己嫌悪の裏返しで。
「構わない。お前があの人の信じるものを無条件で信じるように、俺もお前の信じるものを信じる」
「君は大莫迦だ」
「莫迦じゃない。お前に惚れているだけだ」
「それが莫迦だと言うんだ」
「何が悪い」
俺はそれで良いんだから良いじゃないか、と云ってアルデバランは笑った。
「アフロディーテ、未来派を知っているか?」
しばしの沈黙を破って、突然、牡牛座が言い出した。
「マリネッティの?」
アフロディーテは咄嗟に我に帰る。
「ああ、さすがだな」
「昔、読んだことがある」
戦争を「世の中を衛生的にする唯一の方法」として賛美する彼の著作は、つらい13年間に、何度も読み返した。
「咆哮する自動車は、《サモトラケのニケ》よりも美しい」
お前を見る度に、この一文を憶い出すんだよと、アルデバランは言った。
「光栄だな」
それは、未来主義創立宣言のなかで、アフロディーテにとっても最もお気に入りの箇所だった。
「こんなところで俺と燻っているなんて、お前には似合わない」
アフロディーテは牡牛座のように、好きな人の為に傷つくなら本望、なんて、殊勝な柄じゃない。本来なら、彼はもっと、貪欲なのだ。
「走れよ、アフロディーテ」
お前は、ニケよりも美しい。そう云って、夕日が沈みかかる街の情景を後に、塔の狭い階段を下りた。
晩春の、遅い夕暮れ時だった。
帰り道、踏み切りでほろ酔いの人々を乗せた電車が通り過ぎるのを見ていた。
あの人と薔薇の待つ聖域へと、バイクを走らせる。ヘルメット越しに背中に耳を付けて、騒音が聞こえないようにすると、アフロディーテの華奢な体は、牡牛座の大きな体から長く伸びた影に隠れた。
(…次からは、独りになるのだな…)
こうして、風を切るのも。不機嫌な薔薇を慰めてくれた彼は、もういなくなるのだ。
昼間から外に出て、そばかすが出来たかもしれないと後悔しながら、アフロディーテは、広い背中にしがみつく手に、力を込めた。
2008/5/8, Rei @ Identikal
牡牛座殿、お誕生日おめでとうございます。
アルデバランはいつもアフロディーテを甘やかしていれば良いと思います。
title「疾走する薔薇」は本当は魚誕に上げたかったお題連作「薔薇の名前」の4話目、牡牛編です。
魚誕に間に合わなかったので一話だけ独立させてみました。
十二宮編の年中三人組の「力こそ正義」は、どこか未来派的な響きがあるなとずっと思っていたのでtitleもそれっぽく変えました。
今ひとつですが、地色はアフロディーテが買ったバイクの色「クラレット」のイメージです。
お題元: hazyさまより「夕暮れ、踏み切り、君の影」をお借りしました。
引用:「心も空に」ダンテ・アリギエリ(上田敏訳『海潮音』より)
参照:Wikipedia
マリネッティ(Filippo Tommaso Marinetti)=未来派の設立者。1909年2月29日、パリの「フィガロ」紙に「未来主義創立宣言」を発表。
『……機銃掃射をも圧倒するかのように咆哮する自動車は、《サモトラケのニケ》よりも美しい。……』(未来主義創立宣言(1909年)より)
未来派はイタリアで発祥した前衛芸術運動。イタリア・ファシズムに受け入れられ、戦争を「世の中を衛生的にする唯一の方法」として賛美した。