手も繋げない



 「なあ、カノン?」

それは、ある晴れた休日の午後。週休二日の聖域で、土曜の午後。ということにしておこう。双子弟と蠍座が付き合いだして、まだ三月と経たない頃である。

「なんだ、蠍?」

密かに照れ屋のカノンは、ミロの名前をあまり呼ばない。それは、

「蠍言うな!」

「他に何て呼べばいいんだ?」

「普通に呼べよ!」

(ミ、ミ、ミロ…(赤面))

などと言う情けない事態は、大人の男、カノンには相応しくないからである。

「どうした?ミロ?」

心の準備をし、読みかけの新聞で顔を隠しながら、カノンはいつもより若干低めの声で、格好良くミロの名前を呼んだ。二人はいつも通り、天蠍宮の今のソファの上。座って新聞を読むカノンに、甘え盛りの蠍が、膝枕をしてもらっているところである。

「……」

名前を呼ばれて嬉しいミロは、カノンの膝にうつぶして、悶死してしまった。

「おい、名前呼ばれたぐらいで死ぬな…黄金聖闘士だろ?」

(か、可愛い…vv)

などとはおくびにも出さず、カノンは新聞を畳んで、真っ赤になった蠍座の顔を自分の方に向き直させ、その上気した頰にかかる、蜂蜜色の髪を撫で、赤い耳を露出させ、

「茹で蠍、復活しろ」

耳元で、抑えた声で、囁く。

「……」

カノンの必殺技でミロは逝ってしまった。というか…

「お前…」

ナニが、とは言わない。ミロの股間で、何かが起立してしまったらしい。

「バカ…」

嬉しそうなカノンである。カノンもバカと思う。と、ミロは言い返せないので、調子に乗っているが、カノンは実際どうしようもないバカである。


 閑話休題


 大人なカノンは、ミロを即時昇天させてあげたようである、が、詳細は省く。

「お前、さっき、何言いたかったんだ?」

さて、若い蠍を昇天させたカノンは、さっさと先程の話題の続きに戻る。大人は切り替えが早いのである。

「…絶対言わねえ…」

やられっぱなしのミロは、ソファの上でのびている。恥ずかしくて顔は上げられない。

「そうか…」

カノンはあっさり退いてみせる。大人である。

「……」

ミロは、不戦敗だ。

「…何だよ?訊かねえの?」

本当におバカな蠍である。

「訊いて欲しくねえんだろ?無理に言わなくていい」

カノンは煙草でも吸おうかな〜〜といった風情で、シガレットケースを手に、居間を出ようとする。大した愛煙家ではないカノンと嫌煙家の蠍の愛の巣の、喫煙場所は外だ。

「わ〜〜置いてくな〜〜煙草吸うな〜〜」

「何故?」

「キスしない」

「……」

蠍、本日初勝利。今度はカノンが赤くなる番だ。赤い顔が蠍に見えないように、居間の出入り口で背を向けて、立ち停まっているのがせめてもの抵抗だ。大人のプライドは、死守しなければならない。

「アホか」

いや、アホはカノン、お前だ。と、誰か言ってやって欲しい。

「…どうせ俺はアホだ!!…だから…なあ、手え繋ぎたい」

「……な、何を??」

カノンは戦略不備で、これが敵なら敗走してしまいたいのだが、相手が恋人の蠍となると、そうもいかない。

「だって、カノンは俺の彼氏だろう?」

ハイ、そうです。その通り。

「あ、ああ、そうだが…」

カノンは、開け放した扉に肩をもたせかかった自分の、広い背中が、だんだんしょぼく見えてゆくような気がして、歯噛みした。

「彼氏って、手を繋ぐものなんだろ?」

「誰の入れ知恵だ!!」

(ただじゃ置かん…!)

「ジョーシキ、だろ?」

国語の苦手なミロは、あやしげな発音でいう。

(絶対誰かの受け売りだ、入れ知恵だっ!!一体誰のっ!!)

カノンはようやく振り返る。これは、応戦体勢に入らなくては負けてしまう。心を落ち着かせ、大人の微笑みを浮かべて、ソファの上のミロに、歩み寄った。勿論跪いて、きちんと手を取って、優しく諭すように訊く。

「さあ、ミロ、教えておくれ…誰がお前にそんな下らないことを吹き込んだのかを…」

こういうときの愚弟は、いつもサガ化する。

「…う、うん…カ、カミュ」

ミロはおずおずと答える。正直さは彼の美点だ。

(み、水瓶座か!!!!)

…元彼じゃないか。てっきり、ミロの性教育担当の魚座か、世俗教育担当のデスマスクが発信元だと思っていたカノンは、打ちのめされる。

「そうか…」

二の句が継げないカノンの瞳が宙を泳いだ。

「駄目なのか?」

真っ直ぐなミロの視線は、カノンを捉えて、離さない。

「か、考えさせてくれ…」


 さて、次の日は日曜日。今日は朝から小雨がぱらついている。

「あ〜もう、雨が…」

くせっ毛で雨が嫌いなミロは、傘を持っていない。雨の日は、出掛けないことにしているのだ。

「これじゃあ、出掛けられねえなあ」

ミロの、手を繋ぎたいという望みを叶えてやりたいが、絶対そんなことしたくないカノンは、受難日が先延ばしになって、ご機嫌である。

「出掛けられるって!」

ミロの不穏な発言に、カノンの顔は曇る。

(今日はまだ、心の準備が…)

「だってお前、髪が…」

「へえきvv」

逃げ腰のカノンに何故かミロは猫なで声で擦り寄ってくる。いつもなら可愛い可愛いで抱き寄せるところだが、今日のカノンにはその余裕がない。

「…だって、カノンがドライヤー掛けてくれるからさっ!!」

毎度ドライヤーを掛けてあげているのが、バレバレである。してやってるときは平気なのだが、改めて言われると、とっても恥ずかしい。カノンは自爆してしまった。しかし、大人は、こんなに懐いてくる愛蠍を遺しては、死ねないのである。

「…じゃあ、出掛けるか…」


 果たして、出掛けることになった。が、カノンは大人の男なので、無目的に街を徘徊したりしない。引き蘢り、もとい、出不精、もとい、インドア派のカノンには、出掛けるにはそれなりの理由がいるのである。

「…で、どこに出掛けるんだ?」

「…決めてない」

カノンは、バカ、と言いたいが、本日はその気力がない。

(…さてどうしたもんか…)

カノンは朝から三杯目の珈琲を煎れながら、ようやく、一つの案を思い付いた。

「お前、傘持ってないから、街に新しい傘でも買いに行くか?」

カノンは知らないことだが、ミロは実は、全然傘を持っていないという訳では、決してない。数ある男の家々(水瓶・獅子・魚等々)に置き傘しているのだが、雨の日は出掛けないので、天蠍宮に、一本もないだけである。

「……」

そして、この沈黙は、傘が欲しくないという訳では、決してない。ミロだって、傘がないと困ることだって、勿論ある。

「カノンが、相合い傘してくれなくなるから…いらん」

「ぶっ…」

きゃあ、恥ずかしい。カノンは珈琲を吹き出した。ラダマンティスセレクトの、シャガール風プリントのガーゼのシャツが、台無しである。そう、カノンはミロが傘を持っていないので、いつも相合い傘をしてあげていたのだ。

(一点ものなのに…)

盛大に珈琲を掛けてしまったシャツ。自業自得だ。

「…心配するな。…取り敢えず出掛けよう」


 さて、カノンは先程のシャツを着替え、手早く処理して、シミが残らないように祈りながら天蠍宮の玄関口を出ようとする。

「カ〜ノン!!早く!!」

相変わらず傘を差さない蠍は、小雨に濡れながら、庭で叫んでいる。

(軒下で待たんか!…ふざけた蠍だ…)

カノンは、天蠍宮に唯一備えてある、骨長85センチメートルの、超特大の、紺色のこうもり傘を開いた。裏はバーバリーチェック。そう、これも例の冥闘士からの貢ぎ物である。

「おい、入れ」

呼ばれると、蠍は駆け寄ってぴっとりカノンに寄り添って来た。そう、これこそが相合い傘である。

「バカか、お前は!出掛ける前からこんなに濡れて…」

カノンは首に巻いていた大振りのパシュミナで、ミロの濡れた肩や髪を、拭いてやる。初夏には早い、ある晩春の雨の日。濡れたまま放っておいたら確かに風邪を引くだろう。だが、それ以前に、こんなでかい傘でこんなにぴったりくっついて、手を繋ぐよりよっぽど恥ずかしいという、自覚はないのだろうか?

「ほら、これ首に巻いとけ」

といって、傘をミロに持たせると、パシュミナをいい感じに巻いてやり、自分は傘を受け取った後、片手で軽く襟元を整えた。

「おかしくないか?」

カノンはパシュミナ無しの自分の服装の評価を、ミロに求めてみる。

「カノンはいつもかっこいい!!」

「……」

サガとどっちが、とは、訊かないらしい。カノンは照れると押し黙ってしまうので、二人は一転、黙々と歩き始めた。

「なあ…カノン」

「ああ?」

「思い出さないか?」

ミロはカノンの腕にべったり寄り添いながら、訊いた。

「何を?」

「俺たちが初めて、結ばれた日…」

そう、お約束の台詞である。カノンはますます照れ、というより、蠍を置いて駆け出したくなった。

(…今日は、厄日か?)

ミロはなおも続ける。

「雨だったよな」

「…ああ…」

もう、カノンは魂の抜け殻と化している。ミロ、大人をいじめちゃいけませんっ!!と言ってくれる人はそこにはいない。

「……」

カノンがますます押し黙ってしまったので、二人は十二宮の階を、ちんたら降りていた。雨の日、沈黙、相合い傘。とってもロマンチックである。

「…お前、さ…」

何と、意外にもカノンから口を開いた。

「…どうだったんだ?」

「何?」

今度は、ミロが訊き返す番である。

「…水瓶座のとき…」

カノンは、やはり気にしていたのだった。昨日のミロの、爆弾発言を。

(…俺、今日やっぱどうかしてるかもしれん…)

いつもなら、こういうとき、嘘や隠し事の下手なミロは、洗いざらい全部話してくれる。

(……)

しかし、今日はなんだか反応が鈍かった。

(何なんだ?この沈黙は…)

カノンは動揺する。カノン自身はこういうとき、十に八は気軽にぶちまけるやつだ。

「…言わない…って言ったら駄目か?」

「…言いたくないのか?」

カノンはますます動揺する。ガチで全部聞いてしまうより、質が悪かった。その場で足を止めてミロの顔を見ると、不安そうにカノンを見つめ返してきた。空色の瞳が、心無しか潤んでいる。

「言わなかったら、カノンは俺と別れるのか?」

ミロは真剣だった。

(…バカか!…んなわけねえだろ!!)

と普段ならどやすカノンだが、今日はなんだかいつもと違った。

「…言いたくなかったら、言わなくていい」

などと、優しくいうのがやっとであった。

「…じゃあ、別れるのか?」

(バカか!何度言わせる!言わんでいいと言っとるだろうが!言わんでいいなら別れんでもいいに決まっとるだろうが!)

といつもなら以下略。

「…別れない」

カノン、大照れである。

「…本当か?」

「ああ…別れんから、安心しろ」

「…カノン…っ」

ミロがひしっとしがみついてきたので、階の途中に立つカノンはバランスを失わないように気を遣いつつ、片手でミロの背を抱き寄せ返しながら、

(…傘が邪魔だな)

などと考えていた。どうやら、水瓶座の男のことは、すっかり頭から消えたらしい。

「ミロ」

恥はかき捨てとばかりに、カノンは耳元で、小さく蠍を呼んだ。おバカな蠍は、顔を上げてカノンの方に向けた。

「……」

それから二人は、傘の柄を抱き合った二人の腕に絡めとるようなすごい体勢で、長い接吻をした。カノンの巧妙な舌遣いですっかり恍惚としたミロは、いつものように口を開けっ放しにしていたので、涎でカノンのおニューのパシュミナがドロドロになってしまった。接吻ひとつでミロが骨抜きになってふらふらしてきたので、カノンは相合い傘をしていた傘を畳んで、ミロをお姫様抱っこして天蠍宮へと階を駆け上がり、寝室になだれ込んだ。勿論、今日もカノンはミロにドライヤーをかけてやったが、それは二人で体がふやけるまでたっぷり香油入りの風呂に浸かった後であった。カノンは、ミロが風邪を引くことを極度に嫌う。おそらく、可愛いミロにはいつまでも、風邪を引かないバカでいて欲しいからである。問題の傘は、ラダマンティスに、全く同じものをもう一本、納品してもらうことになった。勿論、ミロの傘を持たない主義をカムフラージュし、いつでも堂々と、相合い傘が出来るようにである。



 そう、カノンは、下半身の男である。えっちや駆け引きは百戦錬磨だが、思わず赤面の気障な台詞や口説き文句では、水瓶座の彼の、足下にも及ばない。

 双子座のカノン、通称愚弟。

 得意技:耳元で囁いて、相手を腰砕けさせること。

 自慢:接吻した相手とは、100%寝たこと。

 こんな彼であるが、実はすごい照れ屋で、手も繋げない。






January, 2007 Rei @ Identikal