Nihilismus
偶然そして偶然これも偶然
カノンはいつものように朝、新聞を取りに出た。
「俺宛?」
珍しく、天蠍宮にカノン宛の書簡が来ていた。彼は天蠍宮でミロと同棲しているが、郵便物の住所は、以前兄と住んでいた双児宮のままだ。書簡や荷物のたぐいは邪魔だし、仕事絡みのものばかりだからだ。カノンは、家庭に仕事を持ち込まない。だからここに書簡を受け取るなんて、驚きだった。
「ワイバーンが、来る」
居間に戻ったカノンは愛蠍のミロに、告げる。この、天蠍宮付けにカノンに宛てられた書簡は、カノンの知己が急ぎで出した、電信だった。
「わいばーん?何?」
「ラダマンティスだ」
ラダマンティスは冥界からの使者として、聖域を訪問することになったのだ。
「……」
ミロは、巧く反応できない。カノンがかつて、「あいつは大人だ」と言った、冥闘士ラダマンティス。
「しかも、急だが今日来るらしい。済まんが蠍、俺は今日は早めに出る」
そのまま、カノンはさっさと身支度をして、出仕してしまった。
さて、そんなことがあったその日の夜、ここは天蠍宮の居間。仕事から帰った二人は、ソファで寛いでいた。
「なあ、カノン?」
甘え盛りのミロはソファで新聞を読むカノンに、いつものように膝枕をしてもらっている。
「なんで、あいつ来ることになったんだ?」
「誰が?」
カノンは片手に新聞を持ちながら、利き手でミロの蜂蜜色の髪を、撫でている。この柔らかいくせ毛の、感触が好きなのだ。
「ラダマンティス」
(まだ根に持っとったのか!)
蠍がいつも通り甘えてくるので、カノンは自分ではすっかりそのことを、忘れてしまっていた。
「…ああ、偶然だろ」
カノンは投げ遣りに答える。
「は?」
ミロは、よくわからないが、すごく嫌な感じがした。
「冥界からの使者に選ばれたらしい。要するに、雑用押し付けられたんだろ」
「……」
(立候補かもしれないじゃないか!)
とは言わない。そんな難しい言葉は、ミロの辞書には無い。
「…でも、カノン、あいつと心中したんだろ?」
だが、何となく、ラダマンティスがカノンにとって特別の男だということは、わかっている。
「…ああ?」
(おい、なんでお前、心中なんて言葉知ってるんだ!)
と、カノンは突っ込みたかったが、動揺しすぎて言えなかった。
「…心中ではない。成り行き、偶然だ」
「…でも、カノンの服、ほとんどあいつからの貢ぎ物じゃないか」
「それは、たまたまあいつがしょっちゅうロンドンに行くからだ。それも偶然だ」
いや、全然偶然じゃないだろう。ミロはそうは言わず、カノンの膝の上でふくれて、そっぽを向いた。
「…お前、嫉妬してるのか?」
とカノンは蠍の、ふわふわの髪を掬い上げて、はらりと散らす。甘い香りがふわり。この匂いが、好きなのだ。
蠍はふくれて、そっぽを向いたままだ。
「ほら、蠍、おいで」
カノンは蠍を抱き起こして、膝の上に、座らせる。ながい髪が揺れて、また、果実の香りが広がる。
「そんなにふくれるな」
と、その深い碧の瞳で、蠍のふくれ面を真正面に見る。蠍はその瞳が綺麗だなあと思いながら、おずおずと見つめ返した。
嫉妬なら、世話はない。ただ蠍は、カノンが自分と此処でこうしているのも、ただの偶然だと云うのではないかと、不安になったのだ。
偶然そして偶然これも偶然
…照れ屋のカノンなら、いかにも言いそうではないか。
January~February, 2007 Rei @ Identikal