死ぬための個性
毎度のことであるが、カノンは海底に行く前はいつも、蔵書家のシュラに本を借りにいく。ところが、今回、この磨羯宮の主はどこぞへの出張任務から戻っておらず、代わって彼を迎えたのは、煙草を片手に現れた、親友のデスマスクであった。
「…蟹か、シュラはおらんのか?」
「あいつは仕事中だ」
どっか、すげー遠いところでな、とデスマスクはカノンを迎え入れた。ある昼下がりのことである。
「まあ入れ」
勝手知ったるシュラの家、と言わんばかりのデスマスクに導かれて、カノンは蔵書庫を兼ねた、磨羯宮の居間に寛いだ。テレビを観ない、特殊カウチポテトのカノンは、いつでも、どこでも、遠慮なくソファに陣取る。書棚がいっぱいで光が射さないシュラの居間は、古本と香の匂いがして、何となく地下室のような雰囲気だ。
「シュラはいつ帰るか知ってるか?」
カノンとデスマスク、シュラは仲は良い、が、カノンは所帯持ちなので、海底行き前に本を借りに来る以外は、この二人とつるむこともなくなっていた。正直、今シュラが仕事で出ていることも、いつ戻るのかも知らないほど、疎遠であった。
「……」
蟹は答えない。代わりに、
「本だろ、勝手に持ってけよ。題名書いてくれときゃ、あいつに渡してやるから」
と投げ遣りに答えた。
「そう言う訳にもいかん」
カノンは、今回ばかりは、訳が違うのだと言った。
「なんでだよ」
「借りるんじゃなく、貰いたいからだ」
蟹座は、困った。
「確かにそりゃ、勝手に持たせる訳にゃいかねえなあ」
でもなんでだ?とデスマスク。
「もう返せねえから」
「なんだそれ?」
今度はカノンが答えない。沈黙が続いた。
「あいつ、一昨日帰ってるはずなんだわ」
沈黙を破ったのは、重い雰囲気に耐えられないデスマスク。
「シュラが?」
「他に誰がいる」
まあ、そりゃそうだ。愚問である。彼は先程からシュラの居間の、ほとんど書棚に封鎖された掃き出し窓の、細い隙間の前に椅子を置いて、外に逃げる煙を眺めながら、煙草を燻らせている。足下には吸い殻を詰め込まれた酒瓶が、いくつか転がっている。
「いつから行ってんだ?」
「十日前」
何でお前知らねえんだよ?行方不明者の親友は、明らかに不愉快そうだ。
「俺も出てたからだ」
「…海底か?」
「他にどこがある」
いや、色々あると思うぜ、と蟹は思ったが、親友が心配で、軽口を叩く気になれない。
「そういや、俺が戻って来たとき、本を返しに寄ったが、いなかったな」
仕方ないからドアの隙間から入れといたんだが、とカノン。
「ああ、あれか…そこに積んどいたぜ、あいつじゃないとしまい場所がわからんからな」
「ああ、あいつ司書みたいだからな」
「……」
カノンの軽口に、デスマスクは答えない。
(…シュラが帰るまで、ここにいるつもりだろうな…)
独りで待つよりはましかも知らん、と思い、男気のカノンはそのままソファで脚を伸ばし、シュラの蔵書を読むことにした。
「お前、読書家か?」
また、デスマスクが痺れを切らしてカノンに話しかけた。もともと沈黙は苦手だが、こういうときは余計重苦しくて、耐えられないのだ。
「そう見えるか?」
活字を目で追い続けたまま、カノンが答える。
「見えねえ」
見た目はな。とデスマスク。
「お前はさ、どちらかっつーと、暇つぶしで読むタイプだろ?」
「ああ、そうだ」
(読書ってそんなもんだろが、アホ!)
などという、心の声は外には決して出さない。カノンは今、独りになりたくない友人とそばにいるべく静かに読書に勤しむ、大人の男性なのだ。
「でもさ、あいつはな…まじで、すげえ読書家なんだ」
「だろうな」
(…この本の量はな…)
(…!…)
活字を着々と目で追いながらも、カノンは自分が今まで、すごい不覚をとっていたことに気づいた。
「なんか、食ったり寝たりするのも面倒くさくなるくらい」
(デキていたのか…!)
聖域に来たばかりの頃は、散々一緒に食ったり飲んだりしていたのに、全然気づいていなかった。
(ミロ並だ…)
自他ともに認める大人として、カノンは情けなくなる。取り敢えず、挽回を狙わなければならない。
「でも、お前の相手ぐらいはしてくれるだろう」
「まあな」
カノンは自分がミロ並の鈍感であることを隠すべく、鎌をかけてみたが、
「…何言わせやがる!」
大成功であった。
「じゃあいいじゃねえか」
素知らぬ風で、カノンは頁を送る。ぎりぎりセーフである。
「……」
さらに沈黙。カノンは正直読書中なので会話の必要性を感じていない。が、親友、改め恋人、否、寧ろ親友兼恋人のシュラが帰ってこないデスマスクは、そうではない。
「なんかしゃべれよ」
「何を?」
カノンは蟹がしゃべりたがっているのをひしひしと感じていて、なんとかしてやることには吝かではないが、こういう真剣な状況で、あまり器用にしゃべれるタイプではないのだ。
「お前んちの蠍のこととか」
(いや、蠍んちに俺がいるんだろ)
どう考えても、と心の中で突っ込みつつ、
「ああ、もう別れる」
と、思わず本当のことを言ってしまった。
(まじかよ?)
「……」
「嘘じゃない」
「俺は信じんぞ」
「俺は嘘は言わん」
そう、こっそり遂行するつもりだったのに、今バラしてしまうほど、カノンは、嘘はすごく巧いが、嫌いだった。
「…想像できん」
「俺もだ」
「嘘じゃねえか」
「本気だ」
わけわかんねえ、とデスマスクは言った。
「俺も分からん」
カノンは考え込んでしまう。
(何なんだろうな、これは…)
「そんなもんってことか?」
「ああ、そういうことだろうな」
最早、カノンは読書を中断していた。
「どうやってやんの?」
「どうしようかと思ってるとこだ…」
カノンは、蠍と別れることだけは決めていたが、全く以て方法は思い付かなかった。ここのところ、海底に行っているときはほとんどそのことばかり考えていたのだが、無理であった。
(いや、というか正直、俺はまともに別れ話をしたことがない…!)
何故海底に行っているとき、なのかというと、ミロといるときは全然別れ話なんか考え付かないくらい、幸せなバカップルだからである。
「お前でもそういうことで悩むんだな」
(当たり前だろう!俺がどれだけ悩んでいると思っている!!)
と心で激昂した後、カノンは自分がこういうことで悩むのは、今回が初めてだということに気づいた。
(すまん、蟹。お前が正しかった…)
嘘は嫌いなので、
「普通は悩むもんだろう?」
と格好良く言った後、
(…ってことは今まで俺は普通じゃなかったということか…)
と悩んでみたりするカノン28歳。
「…そもそも何で別れんの?」
「…分からん」
ここ何ヶ月考えて考えて、考えてもわからなかったのだが。
(…強いて云えば確信か…)
カノンはミロのことは好きだった。少なくとも聖域に居るときにはミロだけでいっぱいいっぱいになるくらい好きだった。取り敢えず、今まで経験した連中では、一番好きだった。というか、ミロのような仲になったのは、兄以外では初めてと云った方が正しい。だが、何故か別れることは、既にカノンのなかで決定事項だったので、不可抗力なのだ。カノンは、決断の男だ。
「あいつ泣くだろうな」
「仕方ない」
カノンはひどい訳ではない。寧ろ、哀しいのは自分の方だ、とカノンは確信していた。
「……」
蟹がもの言いたげにこっちを見た。
「…アフロか?」
「アフロディーテがどうかしたのか?」
カノンは、最近ミロと別れることで頭がいっぱいになっていたので、アフロディーテのことを、存在自体忘れていた。だが、カノンはひどいのではない。カノンのここ何ヶ月は、海底にいてミロとの別れ話について考えるか、聖域でミロといるかの二択だったからだ。
「俺的に、あいつお前のこと好きだと思ってたから…」
さすがデスマスク、聡い。聡すぎる。だが、カノンは結構あっさりしたものだ。
「そうかもな」
(それだけかよ!!)
なんてことは、デスマスクは思わない。
「俺的には、そうだと思うぜ?」
本人に聞いた訳じゃねえから、勘だけどな、と付け加える。彼は基本的に、とっても冷静なのだ。(多分そういうところがシュラと合う)
「じゃあ、アフロでもねえってことはー」
「ちょっと待て、お前、俺が浮気したと思ってんのか?」
「普通そう思うだろ」
(いつそんな時間があるんだ!!)
気持ち的にも、ミロのこと以外は、考えられない。
「俺はそんな余裕はない」
「海底は?」
「仕事だ」
「それだけ?」
「純粋に仕事だ!」
と叫んで、ようやく、ああ、とカノンは何かが見えた気がした。
(仕事がしたいのかもしれん)
ある程度年嵩の大人の男なら、当然といえば当然かもしれない。
「忙しそうだもんな」
「死にかけだ」
「行ったり来たりはしんどいよな」
「……」
(これだ)
要するに、カノンの悩みの一つは、遠距離恋愛であるらしい。だが、実はそれだけではないのである。
「でも最初はたまにだったろ?海底」
(なんと!そういえばそうであった!)
では何故、ここ何ヶ月かは海底勤務が増えて、週末婚状態だったのか?
「最初の頃とかあいつ、すっげえ寂しがってたもんな…」
(今は寂しがっとらんのか!!)
と大声で訊きたいが
「最近は違うのか?」
と軽めに訊いてみる。
「最近はなあ、なんか、もっと強くなってきた感じ」
(抽象的すぎる)
「あいつも待てるようになったってことかねえ」
「そういう風に見えるのか?」
「お前はそういうの、何も感じねえの?」
(よくわからん)
「…俺には、前と変わらんように見える」
まあ基本はな、とデスマスクは反論はしない。
「……」
「まあ、お前が別れたいんなら俺は止めねえけど」
あいつ、一生懸命待ってるんだぜ?と言って、デスマスクは席を立った。
「今日ももう、遅くなって来たな」
デスマスクが飲み物を持って来た。瓶ごと飲む小瓶入りのビールだ。
「これ飲んだら帰れよ。あいつが待ってるだろ」
蟹はこれ以上は酒は期待するな、気分じゃねえ、と言った。
「お前はいいのか?」
カノンはこうなったらシュラが帰還するまで一緒に待つつもりだったので、本気にしていいものかどうか悩んだ。
「バカか!…他のやつにまで、俺みたいな想いさせたくねえよ」
お前にはわからんだろうけどな、と蟹は言った。いいやつである。
「俺には分からんのか…」
(自覚ねえのかよ?)
カノンは、この大人の自分にも分からないのかと思い、ちょっとショックだった。丁度そこに、玄関からの物音が聞こえた。二人は、叫びながら立ち上がる。
「「シュラ!!」」
しかし、入って来たのは、
「シュラは、帰って来たのか?」
魚座であった。夜型の魚座もようやく目覚めて、親友を心配してやってきたのである。しかし半分は、今日夜勤が非番なので暇つぶしなのだが。
「…アフロか」
蟹は喜んだ分消沈して、力なく呟く、まだましなカノンは
(糠喜びさせんな!!)
と、内心ちょっと切れるが、魚座にはまんざらでもないので、ソファを半分空けて、隣に座るよう導く。
「カノン、居たのか…」
アフロディーテは恐る恐る、カノンの隣に座った。
「…久しぶり」
今の今まで記憶から抜けていたが相変わらず美人の魚座に、ちょっと色目を遣って、カノンはデスマスクの言う通り、小瓶に入ったビールを終えて天蠍宮に帰ることにした。帰り際にデスマスクが、
「俺が此処で吸ってたこと、あいつには云うな。本に匂いが付くって、切れるから」
もし、お前がもう一度、あいつに会えるならな、と言った。
天蠍宮に向かう途中、カノンは思い立って、シベリアの修行を終えてこっちに居着いている、宝瓶宮の水瓶座のもとへ行った。ちなみに初訪問である。
「何の用だ」
赤毛の聖闘士は、憎悪を滲ませる。もともと双子弟が好きではなかった水瓶座は、蠍絡みのある一件で、すっかりカノンが、大っ嫌いになっていた。勿論、彼が愚弟を家に入れるわけはないので、玄関先で睨み合っているのだ。
「俺がお前に用って言ったら、あれのことしかないだろう」
真理である。勿論、「あれ」は、蠍のことだ。
「…言っておくが、俺は、疾しいことは何もしていない」
水瓶座は清廉な人柄なので、あらぬ疑いは、本当に御免被りたいところだ。
「もしそんなことがあれば、ただじゃ置かんところだが」
カノンは、続けた。
「事情が変わった…お前に、あいつのことを頼みたい」
(何を言っている?)
眷恋の蠍と憎き双子弟がただのバカップルにしか見えていない彼は、何のことかよくわからない。
「分からんか?」
「……」
水瓶座としては、わからないが、この愚弟に、わからないとは言いたくない。
「あれを、男として幸せにしてやって欲しい」
(…どういうことだ…)
カノンはさらに続ける。
「手を、繋いでやってくれ」
「…手を?」
「俺にはもう出来んからな」
実際には、意外にも照れ屋のカノンは、一回も蠍と手を繋いでやらなかったのだが。
さて、その直後、夕食前の天蠍宮では、掴み合いの喧嘩が始まっていた。ちなみに、今日の夕食はミロが作った、ポトフである(要するに材料を煮込んだだけ)。ミロはカノンと付き合いだした頃は全然料理が出来なかったのだが、最近は自分の分くらいは、なんとか出来るようになっていた。カノンが磨羯宮から帰宅したらミロが夕食を用意して待っていたため、すぐに夕食前となるわけだ。
「…飽きたのか?」
「それはお前の方だろうが」
「意味わかんねえこというな!」
そう、端から見ればどう見ても、ミロの世界はカノンを中心に回っている。飽きるわけがない。大人はやはりすごいのだ。
「なんで別れるんだよ?」
おそらく、カノン以外の全員にとって、晴天の霹靂だ。しかもカノン自身ですら、何故かわからないのだ。そのため、必然的に返事はこうなる。
「俺がそうするっつったら、そうするんだ!」
「嫌だ、絶対嫌だ!!俺は離れんぞ!!!」
ミロは必死だ。カノンにしがみついて、絶対離れないつもりでいる。
「バカ、離さんか、犯すぞ!!」
カノンらしいといえばカノンらしいが、かなり意味のない脅し文句であった。
「犯せよ!!犯して欲しいってんだろ!!バカはお前だ!!!」
ミロはカノンにひしとしがみついたまま、わんわん泣き出した。
(うるせえ、ガキか!くそっ、なんでこんなガキ!!)
なんて、今のカノンは本気では思えない。ミロと一緒に泣きたい気分だった。
「泣け、俺が悪かった。俺を恨め」
そう、ミロも惚れていたとはいえ、奥手な蠍に勢いで手を出したのは、何を隠そう、この、悪い大人の男なのだ。
「悪いとかいうな!!俺がバカみたいじゃないか!!」
ミロは幸せだったのに。そして、今のカノンには
(お前のどこがバカじゃないっていうんだ!!)
なんてことも、思い付かない。大人の男は、泣かずにいるので必死なのだ。
ミロが嗚咽をあげて、会話にならなくなってきたので、カノンはミロにしがみつかれたまま、ミロの髪を撫でていた。昨日カノン自身がドライヤーを当ててあげた蜂蜜色の髪は、相変わらずふうわり、果実の匂いがした。カノンは何を隠そうこのシャンプーの香りが大好きで、ミロといるときは自分は絶対使わず、しょっちゅう愛蠍を抱いて嗅ぎ、海底にいるときは、同じ香りのスプレーを、シーツに巻き散らかしているほどだ。こんなにミロ大好きなカノンだが、やっぱり別れるのだ。
「…ミロ、お前が好きだ…」
カノンは、滅多に呼ばない蠍の名前を呼んで、耳元で囁いた。耳元囁き。これは、数多いカノンの得意技のうちでも、一番の決め技に入る部類だ。しかも、名前を呼ぶことも、数えるほどしかしたことがなかったし、好きなんて、ガチで言ったことは、一度もない。カノンは既に涙が臨界ぎりぎりだ。
「じゃあ、殺してくれよ!!」
嗚咽のなかで、若い蠍は悲痛な叫びをあげる。一番言って欲しかった言葉を別れのときに言うなんて、残酷すぎるじゃあないか。
「お前が死んだら、別れる意味がないだろうが!!」
ああ、カノンも遂に泣いてしまった。一生の不覚。
(…カノンが泣くのか…)
鬼の目にも涙というじゃあないか。まして、双子座のカノンをや。ミロはカノンが泣いたので、びっくりして嗚咽が止まってしまった。
「カノン泣くなよ〜〜」
でも、相変わらず泣いている、涙もろいミロ。
「俺は泣いてない!!」
「嘘つけ!!」
などと、お互いひしと抱きついて離れないまま、二人はしばらくなんだかよくわからない言い合いをした。
「…なあ、俺を振ってくれるか?」
寝台の上で、ミロを腕に抱いた大人の男が、優しく髪を撫でながら言う。ミロは、こういう振り方もあるんだなあ、さすが大人だなあと、最後まで感心している。
「嫌だって言っても、どうせ別れるんだろ」
カノンの広い胸に丸くなって寄りかかった蠍は、相変わらず甘え盛りで。何を言ってもこのまま終わることは、なんとかわかってきたが、もうカノンにこうやって抱いてもらえないなら、このまま死んでしまいたいと思っている。
「振ってくれるか?」
いつも絶対言うこときかせたいときにする、耳元囁き。こんなときにも、こんな哀しい台詞でも、聴いていたいと思ってしまう。この声とか、しゃべり方とか、この腕とか、なかったらもう、絶対生きられない。
「俺に、お前みたいなエロ爺は嫌いだと、そう言ってくれ」
「酷いやつ…俺に、嘘をつかせるんだな…」
エロ爺のカノンが、大好きなのに。だが、ミロは選べない。
「…もうバカって言うなよ!」
短かった蠍と双子弟の恋物語も、これで終わりだ。ミロは最後にもう一回嗚咽をあげて泣いて、…二人の最後の絶頂のとき、裸のカノンの右肩を思いっきり咬んだ。カノンは痛かったけれど、同時にすごく、ミロと付き合って良かったと思った。
次の朝、カノンは、眠っているミロを起こさないように寝台に置いて、独り海底に発つ。ミロが近くにいると、どうしてもくっつきたくなるから、聖域にはしばらく戻らないつもりでいる。双子の兄は、言わなくてもどうせ、何でもお見通しだから、別れを告げずに行く。もしももう会えなくても、兄に預けてあるバイオリンケースの裏ポケットに簡単な遺言状があるので、カノンが死んだときに、気づいてくれればいいのだ。
天蠍宮を出ていると、魚座が階を昇って来るのが見えた。山羊はどうしたのだろう。
「シュラが帰ってきた!」
と、魚座は、華のような微笑を浮かべた。相変わらず、美しい人である。
「よかったな」
「ああ、…どうも死ぬ思いをしたらしいが」
何にしろ無事で良かった。と魚はいう。蟹と山羊と魚。彼ら三人組は、本当に古い、親友同士だ。
「…俺は、お前と付き合えれば良かったかもな」
唐突に、カノンは笑いながらすれ違い様に、魚座の手首を掴んだ。昨日の夜泣いたのは、ミロ以外には秘密だ。
「私も何度かそう考えたことがある」
魚座も、割とあっさりした調子でそう言った。デスマスクに蠍とのことも、聞いたのだろう。
「…無理だけどな」
「同感だ」
カノンには蠍が、魚座にはサガがいる。お互い魅かれ合っても、軸が重ならない。
「俺、多分お前のこと好きだった」
「私も貴方が、頭から離れぬときがあった」
「俺、あいつのこと好きだった」
「私もいつも好きだ」
何故、言いたいことは最後まで吐き出せないのだろう。
「あいつは今日から独りだから、時々様子を見てやってくれ」
「いつも通りにな」
アフロディーテは、これからも隣の蠍を、お茶に招待し続けるだろう。
「それから、兄貴もよろしく」
「最優先事項だ!」
魚座は、サガを結んで繋がり合っているから、カノンにとっては最も話が通じる存在だったようだ。夜型の魚は朝焼けのなか、寝床へと去り、カノンはまた、歩き出した。
階の途中で、カノンは主が帰ってきた魔羯宮に寄る。まだ朝早いが、魚座の様子だと、問題はないだろう。カノンは今日は急ぎなので、玄関先でおいとまするつもりだ。果たして、主は起きていた。
「シュラ、今いいか?」
「本か」
あっさりしたものだ。出てきた山羊座は上半身裸で、右腕に一本浅いけれど長い、切傷があった。死ぬ思いをしたらしいと、魚が言っていたのを思い出す。
「ああ、今回は貰いたいのだ」
「蟹に聞いた」
「済まんな」
山羊との会話はいつもあっさりで、でもすべて重要なことだ。
「あいつはまだここに居るのか?」
「……」
シュラは一瞬考えた。
(蟹か?)
「ああ、俺が帰ったときには寝ていた」
「待ちくたびれてたんだろう」
「だろうな」
(これでは気づかないわけだ…)
カノンはよく考えると、蟹単体でしゃべったのは、昨日がほぼ初めてだった。シュラの話からはいつもわかりにくいが、今回の例を挙げると要するに、帰ってきたときは寝ていた蟹は、今は起きているのだ。
(しまった、邪魔したな…)
大人としてはあってはならないミスだが、今回は仕方がない。
「餞別だ」
引っ込んでいた山羊座が、昨日蟹に渡したリストの本を持ってきた。本を手渡されるとき、非煙家の山羊座からほのかに、煙草の匂いがした。
「いいのか?」
「ああ、持っていけ。本には困らん」
「……」
ああ、よく考えれば、こいつともかなり親しい間柄だったことになるのだな、という感じがする。あまりにあっさりしているから気がつかなかったのだ。
「大変だったらしいな」
「…蠍か?」
「蟹に聞いた」
「ああ、終わらせてきた」
一瞬、いつもポーカーフェイスの彼の顔が、曇った気がした。
「ああ」
「…今までのことは、何だったんだろうと思う」
山羊座にこういう話をすることになるとは思わなかったが、愛蠍のミロと兄以外で、カノンは他に親しい人が居ないのだ。
「俺は色事には疎い人間なのでよくわからんが」
と、死の淵から帰って来た山羊座は言った。
「人の命が死ぬための個性なら…別れるための恋愛ってのも、ありなんじゃないか?」
(……)
そうかもしらんな、と言いたかったが、気がついたら礼を言っている自分が居た。カノンはこれで、少しは救われたかもしれない。
磨羯宮を出て階を歩いていると右肩の咬み傷が疼いて、カノンはこの愛しい蠍の毒になら、このまま殺されてもいいと思った。
January~February, 2007 Rei @ Identikal