Orangette
「やあ、アイオリアじゃないか」
夜勤明けの非番で暇なアイオリアが聖域の入り口の森で寒中稽古をしていると、毛皮のロシア風の帽子に細身の赤いコートを着たプラチナブロンドの人影が近づいてきた。
「…アフロディーテ?」
アイオリアの反応が鈍いのは別に彼自身が鈍いから、ではなく、自他ともに超夜型として知られ、本来ならこんな日の高いうちに見かけるはずのない人物であった為だ。
「良いところで出会った。丁度買い物から戻るところなのだ。一緒にお茶でもどうだ?」
正直、奥手な獅子は攻撃的なまでに艶やかな魚座が、気後れがするので苦手であった。しかし、年長者で立場も上の彼に逆らうことなど、体育会系男子の獅子には出来やしない。
「…ああ、じゃ、じゃあ…」
等と歯切れの悪い返事をしながら真冬の寒さに似合わない汗をバスタオルで拭きながら薔薇の聖闘士に従う獅子。百獣の王も落ちたものである。
北欧生まれのアフロディーテはギリシャの冬が大好きであった(というか、夏が暑すぎる)。日焼けを気にせず外に出られて(勿論対策は万全に行うが)、気温も寒すぎない冬は、夏に比べて格段にアフロディーテの昼の活動性は上昇する(御陰で、他の聖闘士の夜勤が増える)。今日も昼間からアテネにチョコレートを買いに出ていたのだった。
「ミロにオランジェットを買ってきたのだ」
アフロディーテは階を上りながらお供のアイオリアに言った。十二宮の山は、上にいけば行く程先日積もった雪が残っている。二人は注意深く足を進めながら、話を続ける。
「そっか…あいつ、まだ元気ないもんな…」
アイオリアは、ちゃっかり荷物持ちをさせられているが、全く気に留めず、同棲していた彼氏と別れて以来、どことなく沈んだままの、蜂蜜色の髪の蠍座の顔を思い浮かべた。
「全く、問題だな…」
ミロが元気がないと、聖域から灯が消えたようだからな、と、彼を色んな意味で可愛がっている魚座は顔を曇らせた。
変わって、此処は十二宮の頂上、双魚宮の居間である。
「生憎の雪でテラスが使えないのが残念だが、まあ掛けてくれ」
雪布団を被った薔薇の園に驚いた様子で庭に見入る客人に、アフロディーテは席を勧める。
「ありがとう」
薔薇園の見える掃き出し窓を向いた猫脚のソファに、落ち着かぬ様子で腰を降ろしながら、獅子座は紅茶を受け取った。
「では、ここに置いておくので自由に取ってくれ」
アフロディーテは少しずつ色形の違う数種類のオランジェットの飾られた菓子皿と自分の分の紅茶の載った銀盆をソファに置くと、ベルベット張りの椅子をピアノの前から持ってきて獅子から斜め前方に座した。
「改めてこうしていると、君も随分落ち着いたものだな…」
決して甘いものが嫌いなわけではないが、お茶を飲みながら菓子を摘むなどという習慣を持たない獅子が、黙々とオランジェットを摘んでいると、魚座が感慨深そうに呟いた。
「え?」
自己像が全く落ち着いた大人とはかけ離れていると自覚している獅子座は、思わず手を止めて訊き返してしまった。
「いや、すっかり乙女座と本決まりのようだから」
「どういう意味だ!」
初心な獅子座は全身が真っ赤になる。ソーサーを持つ手が震えていた。
「君もかつては随分冒険していたのに…」
忘れたわけではあるまい…と、アフロディーテは薄い唇に、華やかな微笑を浮かべる。
「…お前が言うな!!」
魚座の挑発に簡単に乗ってしまう獅子座はちっとも大人らしくなんかないのだが、これでも確かに昔よりは随分落ち着いたのだ。
「そんなに目くじら立てるな。これでも誉めているつもりなんだ」
アフロディーテは悪びれない。
「…済まん」
少々短気だが、素直なのは獅子座の美徳だ。
「謝るな。…良かったじゃないか。落ち着いただけじゃなく、彼と一緒になってから、幸せそうに見える」
「…そうかな…?」
獅子は実際かなり幸せなのだが、自覚はない。当事者は往々にして客観視が出来ないものである。恋は盲目とはよく云ったものだ。
「そうだとも」
兄がこの世を去ってから数年、消えずにいた眉間の皺と、そこはかとない焦燥感が、今の獅子にはない。
「…そうだな」
獅子は、照れ隠しのように俯いて、冷めかけた紅茶を一気に干した。
「でもな、アフロディーテ」
3杯目の紅茶を煎れようと席を立ちかけた主を、獅子座は呼び止めた。
「どうした?」
アフロディーテは、椅子に座り直して獅子座の瞳を見た。
「何かさ、このままで良いのかなって、思うときがあるんだ」
「何が?」
「…シャカのこと」
訊き返した魚座に、アイオリアは目を合わせないまま、言いにくそうに答えた。
「何か不満なのか?」
「…不満じゃない。けど…」
「どうした?」
魚座は優しい微笑を浮かべた。
「…不満って訳じゃないけど…このままだと、これからずっとあいつと一緒にいることになる訳で…この若さで、これから一生って思うと何か…」
獅子座は、微笑につられるようにそこまで途切れ途切れに話して言葉を濁した。
「ああ、そんなことか」
それは大変な杞憂だなと、魚座はあっさりと言う。
「そもそも、これから一生一緒にいられるなんて、余程でないとなかなかあり得ないだろう」
獅子は、そもそもの前提から否定されて、少々気を悪くしたが、それもそうだと思い直し、続きに耳を傾けた。
「デスマスクとシュラを見て御覧。彼らが一緒に今もいるのは、どう考えても結論じゃなくて結果だろう」
アイオリアが正式に獅子座を継承したときには既に体の関係にあった蟹座と山羊座の二人は、当時も十年以上経つ今も、「ずっと一緒にいる」という言葉からはとてもかけ離れた仲で、しかし、確かに続いていた。
「それは…」
かつて、山羊座に抱かれていたこともあるアイオリアは、実感を持って納得する。
「そしてミロは…」
アフロディーテは言い淀んで、手振りでアイオリアに菓子皿に載った最後のオランジェットを勧めた。
「ああ、そうだな…」
一緒にいたくても、別れなければならないこともあるのだ。
「さあ、もうお開きにしよう。済まないな、アイオリア」
沈黙を払うように、アフロディーテは口を開いた。
「もうすぐ仕事帰りにミロがお茶に来るし、その後わたしは夜勤なのだ」
「ああ、長居して済まなかった…」
問答無用で拉致された上に謝るアイオリアに。
「謝らなくて良いと言っているだろう。こちらこそ愉しかったよ。ありがとう」
よく考えたら、君と二人で逢うのは久しぶりだな、と、アフロディーテは艶やかな微笑を返して。
「さあ、どのオランジェットが一番好みだった?君と君の恋人にも少し分けてあげよう」
「じゃあ、甘いやつで」
オランジェットには、魚座好みのブラックチョコレートに包まれたものと、もう少し甘いものがあった。
「すぐ戻る」
アフロディーテは予想通りの返事を確かめると、席を立った。
「ありがとう。じゃあ」
「気をつけてお帰り」
恋人の宮に手みやげを携えて帰る獅子を玄関まで見送ったアフロディーテは、この庭には、凍える毒薔薇が生き血を狙っているからと、軽口を言いながら、
「……」
去り際の獅子座の唇に、接吻をした。
「…何を?」
「甘い味がする」
ショコラの、と、悪戯に微笑ってみせる魚座は、今日見たなかで一番綺麗だと思う。
混乱と凍結で覚束ない足取りの獅子座は、階を降りながら、唇を軽く噛んだ。
魚座の舐めた唇は、オレンジの皮の、苦い味がした。
2008/2/15 Rei @ Identikal
少しバレンタインっぽいものをと急いで書きました。
(orangette au chocolatはオレンジピールをチョコレイトで包んだお菓子です。)
一度、魚獅子というものを書いてみたかったので満足です。お付き合い、ありがとうございました。