Fleurs de Pommier


林檎の花






何も

あの人だけが世界中でいちばん

やさしい人だと

かぎるわけじゃあるまいし


たとえば

隣の町ならばとなりなりに

やさしい男はいくらでもいるもんさ






 海からの風が吹いていた。


 ヘッドフォンからは、中島みゆき好きのデスマスクから落としてもらった、幸薄げな女の、日本語の歌声が聴こえている。小型の音楽プレーヤーには林檎の印。大陸と島国を隔てる狭い海峡に近い小さな村に、カノンは来ていた。

 聖域を出て海界の仕事に専念する為と、年下の蠍座別れてから約五年を経た、五月の或る、雨上がりのことである。




 「しまった、寝坊したな…」


 蠍座の聖闘士ミロは、薄曇りのテラスで遅い朝食を済ませると、こじんまりした田舎家風プチ・ホテルの外に出た。普段は農業を営む主が、客の有るときだけ営業している民宿的なホテルである。パリの大学に入学した恋人を追ってフランスにやって来たミロは、凡そ一年の予定で、フランス北西部のカルヴァドス県に在る、この小さな村に滞在していた。



 (ああ、すっかり散ってしまった…)

降り続いた雨が明けた朝、樹々からは白い花が消えていた。庭先から眺めると、ノルマンディーの海岸から遠くない、吹きッ晒しの平原に、林檎園が広がっている。

「…ふゎぁ〜」

フランス語の勉強と称して、昨夜遅くまで怪盗リュパンに読み耽っていたミロは、欠伸を噛み殺した。



 「よぉ」

久しぶり。眠そうじゃねぇか。ふと、声が聴こえてその方向を見ると、折からの樹々を揺らす風に銀髪を靡かせて、見覚えのある男が立っていた。


 「カノン…?」

何気なくその名を口にして、ミロはふと気づく。神出鬼没のアルセェヌ・リュパンでもあるまいし。こんなフランスの片田舎に、あの男がいるはずはないのだ。


 「ばぁか、夢じゃねぇよ」

狐に摘まれたような顔をする蠍座に笑って見せる表情は、昔知っていた彼よりもずっと穏やかで。

「…何でお前がここに?」

一方的に別れられて傷ついた記憶が蘇り、胸が締めつけられるような気がする。が、この穏やかな微笑は不可抗力だ。蠍は胸騒ぎを殺して、訊ねる。

「林檎の花を観に来たんだ。久々に陸に上がって花の香りが嗅ぎたくなった」

さぞ、良い香りがするだろうと思ったんだがな。カノンは緊張に表情を強張らせるかつての恋人に、もう一度、艶やかな微笑をくれた。

「残念だったな」

折角だが、花はもう、散ってしまったのだ。流されまいと瞳を逸らしたミロは、目の前の丘を埋め尽くす林檎園を見遣った。

「…何しに来たんだよ」

花見なんて、嘘に決まっている。

「お前に、逢いに来た」

問い質されてた男は、平然と嘯いた。



 「安っぽい気障を云うな」

ほんの少しの間の後、ミロは苛立った口調で返す。

「…好きなくせに」

カノンは含み笑いとともに間合いを詰める。そうだ。かつての恋人にはお見通しなのだ。

「あいつは、元気にしているか?」

穏やかに訊ねる、碧い瞳を直視出来ない。

「自分で逢いに行けば良いだろう?」

こんなところで、油を売ってないで。憎まれ口を吐こうとするともう一度、胸が痛んだ。



 「海峡の向こう側に用があったんだが…珍しい小宇宙がこちらから流れ込んで来ていたから寄ってみたまでだ」

すぐに手が届くほど近くまで来たカノンはそう云って、シガレットケースを取り出すと、煙草を一本銜えて、火を点けた。

(吸うんじゃねぇよ)

自分が煙草が嫌いなことも、重々承知でやっているのだ。

「素直に、家に帰る途中って云えば良いじゃないか」

蠍座は、不機嫌を隠さない。

「何のことだ?」

白を切るのはこの男の得意技だ。

「…あいつと一緒に住んでるんだろ?」

数年ぶりに会うというのに相変わらずの子供扱い。大人になったつもりの蠍は、不貞腐れる以前に、少し悲しかった。

「何のことだ?」

「だから、海の向こうにさ」

もう子供じゃない。何も知らないと思って誤魔化すのはいい加減にしろと、反撃する。

「…ああ、たまにな」

予想外に、悪い男はすんなり肯定した。


 「お前こそ、新しい男とは、うまくやってるのか?」

「何?」

「しっかり可愛がってもらってるかって訊いてるんだ」

にやにやした笑みを浮かべて、返り討ちを浴びせる余裕は、さすがだと思う。

「まあ、ほどほどには…」

お前が訊くことかよ!と言えない蠍は俯いて真っ赤になりながら答えた。

「……」

(そんなに凄いのか…)

やはり、若さというものは恐ろしい。そんな蠍に図らずも痛手を受けたカノンは、返す言葉が見つからないらしい。

「莫迦、急に黙るなよ」

自分で訊いたくせに。と、蠍。確かにカノンは、どことなく寂しげな微笑みを浮かべていて。




 「ミロ、友達かい?」

そのとき、ホテル兼民家の、玄関の扉が開いて、白髪の老人が庭先に姿を現した。少し腰は曲がっているが、日に灼けた肌と快活な表情。確かな足取りで。

「小父さん…」

蠍は、駆け寄って、階段を下りる宿の主人に手を貸す。

「久しぶりに良い天気になりそうだ。ミロ、今からブルターニュの方まで出かけるんだが、乗って行くかい?」

折角だから、友達を案内してあげると良い。

((…友達…?))

カノンと蠍は思わず眼を見合わせた。

「カノン、こちらは俺のお世話になっている家主さん。ここの農園のご主人で…」

「小父さん、この人は…」

(俺の元彼?って言ったら困るかな?)

ミロは一瞬、言い淀んだ。

「ギリシアの親戚だろう?」

見れば分かるよと、その僅かな沈黙を突いて、白髪の男が言う。ミロとカノンは再び、顔を見合わせた。

「カノンと申します。初めまして」

「よく来たね。折角ノルマンディーに来たんだ、モン・サン・ミシェルに行かなければ…乗せて行こう」

林檎園の主人は、大柄なギリシアの青年に挨拶すると、ゆっくりと庭に続く階段を下り、ガレージに向かう。

「さあ、乗りなさい」

納屋と呼んだ方が相応しいようなガレージで、薄汚れた白いトラックのドアを開けて、主は言った。

「ありがとうございます」

「どう致しまして」

カノンが礼を言い、主が応える。自然に交わされていく遣り取りに、ミロは驚いた。

(俺より上手いじゃないか…)

亀の甲より何とかの功とは言ったものだが、カノンがフランス語が出来るなんて、蠍は全然知らなかった。聖域には珍しく、二人は同じギリシア出身で、ギリシア語以外で話す必要がなかったからだ。



 「さあ、ミロもお乗り」

農園主の優しい声で我に帰る。彼は、やっと雨が止んだからと林檎の蒸留酒、カルヴァドスを出荷に行くのだ。三人は、ぎりぎり三人掛けのトラックの運転席に乗り込むと、南に向かって走り出した。






 雨上がりの海辺の緩い陽射しに照らされた海岸沿いの基幹道路には、海風が吹いていた。

「何処でフランス語を?」

「部下の一人がケベック人なんです」

カノンは、カナダのフランス語圏出身の海将軍、バイアンについて話し出す。程よく湿った風と、カノンの流暢なフランス語で交わされる、主との和やかな会話。予想よりもずっと和やかに、三人は目的地に向かっていった。

 開け放したトラックの窓から風が吹き抜けて、ギリシア人二人の長い髪を靡かせる。風下のカノンに吹く風は、潮の香りに混じって、蠍の蜂蜜色の髪の、甘い香りがした。






 「さあ、行っておいで」

干潮で地続きになった島を指して、運転手は微笑った。

「これはカルヴァドスのお土産だ」

と言って、荷台から土地の名前のついた蒸留酒を一瓶持ち出して、カノンに託す。

「お世話になりました」

カノンが老人に見せた厭味のない微笑。

(…こんな表情も出来るんじゃないか)

ミロはどきりとした。

「行くぞ、蠍…」

目の前には海に聳え立つ城塞。カノンは何の気なしに、ぼうっとしている蠍の肩を掴んで引き寄せると、歩き出した。




 「すごい人だな…」

島のなかに入ってみると、平日だというのに、モン・サン・ミッシェルは凄い人ごみだった。

「うわっ!ごめんなさい」

城塞へ上る参道を早足で歩くカノンの背中を見失うまいと、夢中で追っていた蠍が、下りてくる客にぶつかって、声を上げた。

「何をしている、バカ蠍…ほら」

蠍の声に立ち止まったカノンは、後ろ手に手を伸ばした。

(……)

その手を、取ってしまって良いのか。蠍座の脳裏に、自分がギリシアから追ってきた年下の恋人の顔が浮かんで、手が止まる。

「蠍…」

反応がない蠍座にカノンは振り返って、無理矢理手を取った。




 「飯でも喰うか」

参道の途中で正午の鐘を聞く。カノンと、カノンに手を引かれた蠍は、島に入ってから初めて、顔を見合わせる。

「ああ…」

「何、不満か?」

「いや、大丈夫。付き合うよ」

明らかに不服そうな表情で目を逸らした蠍に、カノンは苛立つ。

(っていうか、手、放してくれ…)

指を絡めてこそいなかったが、カノンに繋がれた手は、しっかり手のひらと手のひらが合わせられて、しっとり、汗が滲むようだった。



 「…此処にするか…」

名物だという、オムレツの発祥地でもあるレストランの前で、カノンは立ち止まった。赤い看板には、剥がれかけた金色の文字で、創始者である主婦の名前。

「どうだ?」

「別に」

それでいい。ミロは、漸く放された手を、ぎゅっと握りしめた。



 丁度正午で入れ替わりの時間だった為か、なかに入ると、騒がしい店内にはそれでも、二人テーブルがひとつ、空いていた。

「機嫌が悪いな」

「……」

椅子に腰掛けながら蠍を見つめるカノンに、蠍は応えない。それは、

(…お前に機嫌良く話し掛ける義務はない)

そういう意思表示で。

「オムレツを二つ」

「飲み物は?」

「シードル、グラスは二つで」

移民風のギャルソンヌに注文を伝えた後、カノンは先刻蠍座の家主のカルヴァドスの農夫からもらった、酒瓶を手に取って、まじまじと見た。

「ポム・プリゾニエールか…」

本当に、林檎が丸ごと入ってるんだな、とカノン。カルヴァドスの瓶のなかには瓶の口よりも大きい、林檎が入っている。

「…どうやって作るか、知ってるか?」

その、酒造元に間借りして仕事を手伝っているミロは、少し自慢げに訊ねた。

「否」

「ふふん」

蠍に鼻で嗤われてカノンが軽く青筋を立てたところで、料理が運ばれてきた。


 「じゃ、乾杯」

褐色の肌をした年増のギャルソンヌがシードルを注ぎ終わると、二人はグラスを鳴らした。

「此処のオムレツ、好きなんだよな」

「そうか?ほとんど味がしないぞ?」

「ふわふわしてるのがさ、いい」

ほとんど卵の味しかしないプレーンオムレツを旨そうに頬張る蠍に、思わず目を細める親爺なカノン。

「…っていうか、お前、この前は誰と来たんだ?」

彼は、つかぬことに思い当たってしまった。

(しまった…!)

「…それ、本気で訊いてる?」

「ゴホッ…ケホ…ッ」

愚問である。カノンは照れ隠しに煽ったシードルで、咽せてしまった。

「莫迦」

子供扱いしていた蠍に白い目で見られると、居たたまれない。自己嫌悪で死にかけていると、蠍が突然、椅子から立ち上がった。



 「しまった…財布忘れてきた…!」

拉致同然の急さで車に乗せられたので、無理もない。

「…金なら貸すぜ。何ユーロいるんだ?」

「厭だ。お前に借りなんか作りたくない」

「っていっても、帰れなかったら困るだろうが」

「いいよ。…あいつが、迎えに来るから」

携帯貸して。上着から電話番号の書いてあるメモを取り出しながら、蠍は強請った。半分旅先にいるような状態なので、蠍は、携帯を持っていないのだ。



 「どうだった?」

「夕方には迎えに来るって」

店を出た二人は、再び参道を上り始めた。食事の後、ミロはパリの大学に通う恋人に短い電話をして、迎えを要請した。

「間に合うのか?」

「もうパリを出るところだから、平気だって」

今日は金曜日だし。と、蠍座は言う。ときには蠍がパリに行くこともあるが、基本的には彼の恋人は週末になるとカルヴァドスに戻ってきて、一緒に過ごしているのだ。

「車か?」

「そりゃそうだろ」

こんな僻地だぜ?と蠍は眩しそうに島を取り巻く海と、潮が満ちてきた浅瀬から繋がる陸地に、視線を投げる。

「とにかく、サン・マロ湾に着いたらカノンの携帯が鳴るから」

空には昼間の太陽が、朝よりも随分と、輝きを増してこちらを見ていた。




 「あいつもとうとう免許が下りる歳になったのか」

「そ、俺たちも歳取ったってこと」

「一言余計だな」

「真実だろ」

お互い、新しい恋人とどうして付き合うことになったのか訊きたいが、言い出せない。他愛のない憎まれ口を交わしながら参道を上ると、いつの間にか話すことがなくなってしまった。


 人も疎ら、というにはやや混み合っている、薄暗い城塞のなかは、それでも喧噪からは無縁だった。二人はもう一度、どちらからともなく手を取った。



 城塞の中庭の、直接雨が打ち付けない場所に、散り残った林檎の花が咲いていた。昼の太陽からも取り残されたそこはとても、静かだった。少し、休憩しようとどちらからともなく、二人は石造りの囲いの上に腰を下ろした。繋がれていた手は離れたけれど、どちらもお互いの、瞳を見ない。




 建物の間を縫うように、風が吹くと、甘い匂いがした。

「毎年この季節になると、お前のことを想い出すんだ」

不意に、ミロが呟いた。

「何故?」

「もうすぐ誕生日だろ」

訊き返すカノンに応える蠍は、相変わらず眼を合わせない。

「馬鹿、想い出させるな」

歳のことは云わない約束だと、カノンは言った。

「…奇遇だな。俺もお前のことを考えるときがある」

特にこの季節は…さりげない口調で。

「俺はどうせ林檎だからな」

「可愛いじゃないか…」

「何を今更」

「俺は本気だ」

「止せよ」

静止した蠍座は、幾分かの照れを隠せず。

「酸っぱい林檎だろ?」

「可愛くないやつだ」

「昔の男に可愛げ振りまくほど、困ってない」

(ああ、言ってしまった…)

カノンの瞳を盗み見た蠍は、その碧い海の瞳に、影が過るのが見えた。

「…目に入れても痛くないくらい、可愛かったよ」

「……」

誰が、とは云わないカノンの言葉に、今度は蠍が黙る番だ。カルヴァドスの瓶の中で、林檎が揺れた。

「狡いやつ…」

「知っているだろう」

「なあ、別れた後だからって、そんなこと云うのは、反則だろ」

「別れた後だから云うんだ」

「頼むから止せ」

…別れた男に笑ってさよならを気取れるほどの余裕は、俺にはないから。ミロは悲しいような、困ったような複雑な気持ちで、微笑を作ろうとした。




 「林檎ってさ、花を摘んだり、生りかけの実を摘果したりして、間引かないと駄目なんだって」

だから、日本の林檎に比べてこっちの林檎は美味しくないんだって、あいつが言ってた。と、ミロは言った。

「……」

「俺とカノンも、実らない花だったんだな〜って思った」

「そうか…」

別れたときには目の前が真っ暗になっていたミロは、淡々と言った。



 「…もう、俺はお呼びじゃないんだな」

すっかり吹っ切れた感のある蠍の言葉に、カノンは軽く不貞て見せた。

「呼んだって来ないくせに」

静かに言った蠍座は、微笑さえ浮かべる。

「なあ、カノン。…俺、あのとき終わって良かったと思うんだ」

自分から別れておいて何を言うのだと、責めない。あのまま一緒にいたら、俺、本気でポム・プリゾニエール(閉じ込められた林檎)だったと思うから。そう云って。

「蠍…」

蠍の肩を抱き寄せたカノンに、蠍は抗わなかったけれど、自分から抱き返すことはしなかった。


 カノンの腕のなかで、ミロは瞳を閉じた。

「彼氏でもないのに、手なんか繋ぐなよ!」

「一緒にいられないなら、好きだなんて、云うな!」

「俺が、お前のこと忘れるのに、どんな想いしたかも知らないくせに…」

「あの人に気兼ねするくらいなら、初めから手を出さなければ良かったじゃないか!」

そんな言葉が頭のなかをぐるぐる回っていたけれど、全て胸に仕舞った。今更、どうしようもないことだ。



 「デスマスクが…海闘士として生きようと思った、お前の意思を尊重しろって、言ったんだ」

しばしの沈黙の後、ミロが漸く、口を開いた。

「蟹が?」

訊き返すカノンの、脳裏に、最近会ったばかりの、昔の同僚の姿が思い浮かぶ。

「聖闘士と海闘士は住む世界が違うから、カノンは板挟みで苦しんでいて、お前はカノンを好きなら、縛り付けちゃいけないって」

「……」

「もう行こう」

聞き分けの良い蠍が腕をすり抜けて立ち上がり、カノンもそれに続いた。



 城塞を出て、もと来た道をゆっくり下りて行く。日が傾き掛けた今は、もう上ってくる者はほとんどおらず、来たときよりも随分、閑散としていた。


 先を歩くカノンの背を、蠍が静かに追う。やがて、島の入り口の近くまで来て、カノンは立ち止まった。そうして、追いついた蠍は再びカノンの腕に収まる。

「なあ、カノン…」

少しの沈黙の後、ミロは呟いた。

「でも、それでも好きだった…」

今更だけど。と言った、その声は静かで。

「…一杯のシードルの価値もなかったなんて、云わないのか?」

抱きしめる腕に力を込めて、カノンが訊ねる。

「莫迦、そんなこと云う訳ないだろ…」

腕のなかの蠍は、相変わらず、自分からはカノンの躯には触れず。

「罪の林檎を齧ってしまったな…」

「蛇は、何も云わなかったよ?」

楽園を追われたアダムとエヴァのように、二人はもう、無邪気に裸で抱き合うことは、出来ないのだ。



 そのとき、カノンの携帯が数度呼び出し音を鳴らし、すぐに切れた。水平線を見ると、海の向こうには丁度、夕日が足を掛けている。



 風が凪いだ。



 「帰したくないないな…」

「…ふざけるな」

お前の会いたい人は、他に居るくせに。ミロは俯いたまま、昔の恋人の足を、爪先で小突いてその腕を引きはがすと、目を合わせないまま、背中を向けて駆け出した。





 取り残されたカノンは、しばらくその後ろ姿を見送った後、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出して、発信履歴を繰ると、通話ボタンを押した。

「…ああ、もしもし。俺だ」

『どうした、カノン』

「否、何でもないんだが…」

『酷い声だな…分かった。今日はそっちに帰る』

「お前、仕事は?」

『どうとでもなるさ、それより…』

お前に逢いたくて死にそうだ、と、電話口の男は言った。

「…勝手にしろ」

カノンは携帯の通話を切ると、首に掛けていた、ヘッドフォンを耳に当て直す。再生をボタンを押すと、感情を押し殺した女の声が、朝聴いていた曲の、続きを唄い始めた。






後であの人が聞きつけて

ここまで来て

あいつどんな顔していたと

訊ねたなら


わりと平気そうな顔しててあきれたねと

忘れないで冷たく/p>

答えてほしい






 ミロが駐車場に着くと、淡い金髪を夕陽に染められた、年下の恋人が、車に背を預けたままこちらに手を挙げて合図をした。それを見て立ちすくむミロに気づいた彼は、急いで車に乗り込むと、広い駐車場の入り口に、恋人を拾いに来る。




 ミロよりも幾分淡い金色の髪をした若い青年は、助手席に乗り込んだものの何も云わない恋人の顔を、覗き込んだ。

「もう、良いの?」

「……」

「彼と、もう話さなくて良いの?」

「……」

「何も怒っちゃいないから、黙らなくていいよ?」

「…ごめん」

「泣いているの?ミロ」

「ごめん。…何でもないんだ」

「ミロ?」

「俺、お前のこと好きだから」

「どうしたの?突然」

「ちゃんと好きだから…」

「…知ってる」

「…だから…今は泣かせて」




 車の窓から風を感じながら、運転席の恋人を見つめた。


 ジリリと、胸が焦げるようだった。



 ミロは、静かに窓の外の、暮れかけた空を見上げた。


 いつの間にか、凪いでいた海は再び揺れ始め、海岸には陸からの、五月の風が吹いていた。




 心から好きだと思う彼にも、言えない気持ちがある。




 風薫る、緑の木陰の下、あの人ともう一度だけ、抱き合いたかった。






泣かないで泣かないで


私の恋心


あの人はあの人は


お前に似合わない




…泣かないで…








2008/6/15, Rei @ Identikal






引用:「あばよ」作詞作曲中島みゆき

"you are the apple of my eye"=「目に入れても痛くないほどかわいい!」

"Ca ne vaut pas un coup de cidre."=「一杯のシードルの価値もない」は、何の価値もないことの喩え。

"La Pomme Prisonnière"=「閉じ込められた林檎」。春先から小さい林檎に瓶をかぶせて成長させる、林檎1個が丸のまま漬け込まれたカルヴァドス。

"Comment te dire adieu", ecrit par Francoise H★RDY


20代も後半になった蠍と最早三十路のカノンが手を繋いでいる…というのは明らかにキモイ気もしますが、「久々に元彼に出逢ったら、昔の気持ちを想い出した」というか、そういう感じだと思って多めにみて頂けると幸いです。因みにカノンの逢いたい人は、勿論兄上です。

大遅刻な上にこんなどうしようもない作品で申し訳ありません。

主催者さま、お疲れさまでございます。素敵な企画をありがとうございました。