Sans raison claire


わけもなくすき






うまく笑えない自分には


彼が


眩しかったのかもしれない








  わるい子だったわたしはわるいおとなになりました



 「何度か寝たからって、馴れ馴れしくしないでくれないか?」


 階を昇り間もなく、教皇宮に差し掛かるところ。よく知った人物が、声を荒げていた。

「気に障ったなら謝るが…俺にはどうも、君がそこまでムキになる理由の方が気になるな」

「親友」の露な苛立ちを、さらりとかわす。階を昇り切って、柱の向こう側に見えたあの人は、確かに微笑んでいた。

「何を…っ!」

彼と対峙する、銀髪の横顔。いつも穏やかなその人の頬が、紅くなまめいていて、思わず息をひそめた。



 「シュラ、居たのか」

頭上から降る、あの人の声。居てはいけない場所に居合わせてしまったのだということは、何となく分かっていた。

「……」

だから、何も云えなくて。




 (…俺は一体…?)




 「…おい、シュラ」


 名前を呼ぶ声に、引き戻される。



 他人の腕のなかであなたの夢を見ている。


 悪い子どもだった俺は、悪い大人になりました。








  健康を祈ります、幸福を祈ると崩れてしまいそうなので



 「残念だが、君のお兄さんは亡くなった」


 抑揚のない乾いた声で兄の死を聞かされた。

「…兄さんが?」

訊き返した自分には未だ、人が「死ぬ」ということの意味は、ひどく漠然としていて。それでも、そう告げたあの人の瞳が疵付いたガラス玉のように沈んだ色をしていて、悲しかった。



 (…ねえ、想い出さなくて良いよ?)



 あの人に似ている俺は、記憶のなかの彼と同じようには、笑えなくて。それでも、自分でも怖いくらい似てきた俺を見て、彼が、想い出さないはずはない。あの人を忘れた彼はきっと、自分を見なくなるだろう。

 あの人を想う、彼と俺とはきっといつも、同じ疵を舐め合っていた。



 自分を見て欲しいと思うと途端に、見失いそうになる。



 「…ねえ、煙草を吸うの止めて…一緒に、早く寝ようよ」



 彼の、健康を祈らせてください。せめて。


 今、幸せを祈ると、すべて崩れてしまいそうなので。








  貰っておけばよかったものと、捧げておけばよかったもの



 たまたま教皇宮で鉢合わせした二人が、肩を並べて階に差し掛かると、遥か麓の方に、変声期を終えたばかりのあの人の弟が、黒髪の少年の背中を追って、駆け上がって来るのが見えた。


 「妬けるかい?」

微笑を浮かべて問う、幼馴染みの口調には、僅かな揶揄が含まれていた。

「莫迦、減るもんじゃねえだろ…」

鬱陶しげに蟹座は応える。

「寛大だな」

魚座は、感心したように大げさに頷いてみせた。


 「そう云えば、シュラとあの人は、何もなかったのか?」

山羊座の背を追う獅子座の姿を見て、想い出したように、魚座が訊ねた。

「まぁな、俺が知る範囲では…」

(…何云わせやがる…!)

ふふ、と笑った魚座に気づいた蟹座は、苛立ちまぎれに、煙草に火を点けた。その手の中で火が、揺れる。


 「そんなことなら、私が貰っても良かったな」

君に奪われる前に。落ち着きのない蟹座の様子を面白がって、魚座が揶揄した。

「…莫迦云うな」

蟹座はそう言って、魚座を睨む。

(あいつの貰って欲しかった人は、他に居るだろーが…)

そんな冗談を嗤うには未だ、皆余りにもあの人に囚われていた。



 「…それでも…あいつがあの人を忘れてしまえば良いと、思ったことはなかった」

枯れ葉を巻いて吹く空っ風を、嫌うように背を屈めて、蟹座は既に短くなった煙草を、石畳に擦り付けた。


 「…殊勝だな」

風に乱れようとする髪を手で、庇うように覆いながら、

「…私は、あの人が初めから居なければ良かったのにと、思うことがある」

魚座はそう言って、小さく笑った。








  流れる日常があなたに躓くことはついに無かった



 あなたを抱いていても、あなたのなかに入ることは出来なかった。


 あなたに躓くことはなく流れる日常は過ぎ去り。


 結局、今までにあなたを躓かせたのは、彼一人だということに思い当たる。




 (あなたを躓かせたから、彼は死んだのだ…)




 教皇宮を出て、久しぶりに昼の空を見上げる。


 晴れた冬の空には何もかも見透かすように、冷たい太陽が注いだ。








  苦しかったことは正しかったこととは関係がないのに



 「そうだな、ごめん。俺が悪かった」


 彼はいつも、何の躊躇もなく謝った。彼が本当に悪かったことなど、ほとんどなかったのに。理不尽を真っ直ぐに通り抜けて、何事もなかったように笑っている彼を見ていると、何故か苦しかった。




 「…っ…サガ…!」

小刻みに震える指でしっかりと髪を掴まれて、頭皮が痛む。彼が自分のなかで果てるのを、醒めた目で見ていた。

「…サガ…ああ、綺麗だ…」

恍惚と名前を呼んで、微笑った、彼の表情を見ていた。




 …彼さえ居なければ…




 何故彼が選ばれたのか、考えないようにしていた。

 彼さえ居なければ、確実に選ばれただろう自分。その自分に、何が足りなかったのか、考えないようにしていた。



 そうして、彼を消し、時が経って尚、体に遺る彼の幻影。



 「…綺麗だ…」


 囁く声と、髪に触れる指と、満ち足りた微笑と。真っ直ぐ前を向いた彼の視線に、苛まれる。


 圧倒的な正しさで、自分を包んでしまう、彼に苦しめられて、尚。



 …どうして私は彼に、許したのだろう…








  すこしずつすこしずつあなたは架空になっていくけど



 (それにしたって、そんなあんたを良い男だと思わない日はないんだから、癪に障るぜ…)


 あいつの傍で。と独りごちて空を見上げると、刷毛で掃いたような、雲の群れがゆったりと、流れていた。


 (あの人今頃、あの上で笑っているかもな…)


 巨蟹宮の前で、銜えていた煙草を一息吸い込むと、蟹座は階を昇り出した。


 冷たい風の吹く、乾いた秋晴れの日だった。









  清いばかりのおもかげは、歪んだのだと思いたくない



 「アイオリア、俺はシュラと用があるから、先に戻っておいで」


 人払いされたあの人の弟が、淋しそうな表情を浮かべ、それでも聞き分け良く、帰って行く。金茶の巻き毛を揺らして駆けて行く子どもを気の毒にも思ったが、実の弟よりも近しいところに居るのだと思うと、何か誇らしい感じさえした。




 「…シュラ…忘れてくれるかい?」

逞しい腕に抱かれて、あの人の囁く声が、夢のように聞こえていた。


 「シュラ…」

あなたのものになる。生け贄の黒い山羊は、その誘惑に、喜んでその身を差し出すだろう。


 「厭だ…アイオロス…厭だ…!」

頬を紅潮させてあの人を罵った、あの美しい人の影が、思い浮かんだ。瞼の裏で、自分の黒髪とは似ても似つかない、豊かな銀髪が乱れていた。


 「…厭だ…止めてくれ!」


 「止めてくれ…俺は…サガじゃない…」



 気がつけば、あいつの腕のなかで俺は、涙を流していた。



 俺は知らない…

 彼があの人を知るようには、あの人を知らない…



 「俺は、あの人の何が欲しかったのだろう?」


 そう訊いた俺に。目の前の、滲んだやつの顔が、微笑んだように見えた。










初めに、光があった






嗚呼


この目さえ


光を知らなければ










2008/12/08, Rei @ Identikal






Reiの☆矢サイトIdentikalへはコチラからどうぞ。










お題の"as far as I know"さまより、お題「わけもなくすき」をお借りしました。

書きたいことの半分も書けなかった感じがありますが、これが限界です。主催者さま、申し訳ありません&ありがとうございました!

射手山羊←蟹でも、蟹は意外に兄さんのことは好きだと思います。



新しい思い出が増えることはなく、記憶は薄れるしかないのだけれど

わ...謝らないといけない人は増えるばかりです。/ け...幸福とか安寧とかって、何もかも終わってしまったみたいでしょう。/ も...悔いてしまいたくなります。/ な...決して強かったのでも正しかったのでもない。/ く...わたしは言い訳がしたいようです。/ す...恋しがる胸は血と肉のままだから。/ き...きっと、ほんとうのほんとうにおもっていたかたち。/