空のあなた
やまのあなたのそらとほく
「さいはひ」すむとひとのいふ。
ああ、われひとととめゆきて、
なみださしぐみ、かへりきぬ。
「何を見ているの?サガ」
教皇の間の寝台で目覚めたアフロディーテは、いつの間にか起きだしていたサガが、バルコニーに続く窓越しに、外を眺めていることに気づいた。
「夜明けを…」
答えながら、サガは寝台の上の情人を振り向いて、微笑んだ。
「アフロディーテ、起きたのか」
優しい表情。この顔を見ると、アフロディーテはいつも泣きたいような気分になる。夜には獰猛な本能でこの人を自分のものにしたいと思う、同じ朝に、この人を守らなければという義務感に駆られる。同じ気持ちで。
「サガ…」
名前を呼ぶ。あの人が、振り返る。あの人が、微笑んでくれる。そして、またどこか遠くに、視線を奪われるのだ。
夜型でお日様嫌いのアフロディーテは、ほとんどの勤務を夜勤の聖闘士として教皇宮に詰めていた。そんなアフロディーテと、カノンを失った双児宮に帰りたくないサガが、いつの間にか逢い引きを繰り返すようになったのは、公然の秘密だ。
「この眺めがお好きなのですか?」
目の前には荒涼とした十二宮の山を麓まで見下ろし、見上げればスターヒル。好むと好まざるとに関わらず、絶景であった。
「…ここからは、海が見えぬ…」
何を、考えているのかと、訊けない。でも。
(知っている)
絶対に口に出さない、名前。
(避けようとするほど囚われる、もうひとり)
囚われているのだ。あの人も、自分も。
自分とサガの間には、肉体関係以上のものは存在しないと、アフロディーテは身に染みて分かっていた。
朝になるとひととおり名残を惜しむ二人だが、一度も引き止められたことはない。一緒に寝過ごすことも、お互いの住処に行き来することもない。アフロディーテがサガと初めて寝た十五の頃以来、二人が普通の、他愛のない恋人らしい様相を呈したことは、一度としてなかった。
(何の、不満もない)
アフロディーテは迷いなくそう云える。
(この人の孤独を解するには、この人と眠るしかない)
自分の、負の感情を押し殺したサガが、悲しみを吐き出すのは自分のなかであって欲しい。それは、祈りにも似て。
(海が、見えない)
寝台に戻って来たサガに抱きすくめられて瞳を閉じる。
「アフロディーテ…」
サガは、いつになく落ち着かない声色で名を呼んで、華奢な情人の豊かな髪を、かき抱いた。サガがいつもより不安定な理由を、アフロディーテは知っていると思う。
(五月、三十日)
双子座のもう一人は、帰らなかった。
(この人の半身が、帰らない)
もう半年以上も。アフロディーテは俯いたまま、震える手でその胸板を押すようにして、身体を離す。
「そろそろ、お暇しなければなりませんので」
突き放すつもりはなかった。
「ご苦労であった」
淡々と労いの言葉を云った、その同じ呼吸で、去り際の自分の袖を引くような、そんな人を。
半分愛してください
のこりの半分で
だまって海を見ていたいのです
そう、ここからは、海が見えない。
(だから、あなたに溺れていたい)
自分たち兄弟は、どこまでも交わらず、寄り添っていく、水平線のようなものだと。カノンが聖域を出て行ったとき、サガは云った。
半分愛してください
のこりの半分で
人生を考えてみたいのです
アフロディーテが教皇の間を出て、山の端から顔を出し始めた朝日に横顔を隠しながら双魚宮に戻ると、薔薇園の奥の、宮の入り口にさっきまで一緒にいたあの人と同じ容姿の、人影があった。
(まさか)
信じられない、という面持ちで男を見つめるアフロディーテに、男は軽く右手を上げて挨拶した。
(間違いない。あの男だ…)
「何の用だ!!」
確信を得ると同時に、アフロディーテは声を荒げた。
「お前に、会いに来た」
一時は双子座の聖闘士として生き、今は海龍に戻ったその男は、警戒心を露にする魚座に、笑みを返す。
「そんな、抱かれたそうな顔するなよ」
カノンは悪戯っぽい笑みを浮かべて、アフロディーテに近づいて来た。
「してないっ」
悪い冗談だ。アフロディーテが後ずさると、薔薇の葉に乗った朝露が、衣服を濡らした。
「あいつの誕生日の翌朝に、お前と寝るなんて、出来る訳がないだろう?」
カノンはこの、束の間の情人に、かつて何度かそうしたように、その陶器のような頬を飾る、泣きぼくろを手の甲で撫でる。
「なあ?」
あの人と同じ、優しい表情で。
「……」
その日は、この人の誕生日でもあったのにと、一瞬、思ってしまった。
「ばか」
動揺を見て取ったカノンは、アフロディーテに軽い、口づけをした。
(薔薇の、香りがする)
ここは、変わらない。カノンは、重ねていた唇を離すと、大きくその、芳しい花園の空気を吸い込んだ。
カーテンの隙間から差し込む光は強く、正午を思わせる。天蓋付きの、お気に入りの寝台の上にうつ伏せたまま、朝寝を妨げられたアフロディーテは、億劫そうに瞳を細めた。視線の先には、あの人と同じ姿をした男が、逆光に浮かび上がる。
「サガが、あなたとミロが別れたのは自分のせいではないかと、心配していた」
(ひどい話運びだ)
再びこの男に流されてしまった、その後で。
「自意識過剰だな…」
あいつらしいが、と、シャワーを浴び終えたばかりのカノンは、ボタンフライのジーンズの前開きを留めながら、軽口を叩いた。
「じゃあ、何故だ?あなたは今でもあの子を、愛しているように見える」
せめてもの、仕返し。
「…おい」
愛しているなんて言葉は、今まで使ったことがない。気恥ずかしくなったカノンは眉を寄せ、わざと気難しそうな顔をした。
「もちろんサガのせいではないし、蠍が嫌いになった訳でもない」
語尾がやや、不貞腐れたような響きを帯びる。
「ただ、自分の人生を、もっと真剣に考えたくなっただけだ」
「アフロディーテ」
伏したままのアフロディーテの視界を覆うように、カノンは寝台に身を乗り出した。
「何?」
「サガには云うな」
カノンは、何を思って抱かれたのだと、訊かない。
「当たり前だ」
アフロディーテも、答えない。代わりに、
「私があなたに抱かれているとき、あなたはサガに抱かれているのだと、思っていればいい」
そう云って、意味ありげに、微笑みを浮かべた。
「アフロディーテ」
カノンは、もう一度だけ、名前を呼ぶ。
「どうした?」
「…綺麗だ」
この男にはそぐわない、優しい顔。
「ばか」
こんな顔をして、また、遠くへ行ってしまうのだ。
アフロディーテは横になったまま少し伸びをして、寝台の天蓋を仰いだ。男の足音は、もう聞こえない。
(ここは、海が見えない)
いつまでも、どこまでも、空に抱かれている、海はあなた。
空はいつだって、あなたの海鳴りを聴いているのに。
幸せはいつも手が届かない、どこか彼方。
届かないものを求めない振りをする、空のあなた。
(海は、見えなくてもいい)
ここにも、空がある。カーテンの隙間からの日差しが、少し傾いた気がした。
空と海の、新しい、一年の始まり。
やまのあなたになほとほく
「さいはひ」すむとひとのいふ。
上田敏訳『海潮音』よりカール・ブッセ 「山のあなた」
寺山修司 「半分愛して」
2007/6/9 Rei @ Identikal