Die Krankheit zum Tode
「人に絶望するなら、まず先にお前が首をくくれ」
カノンがミロを置いて聖域をあとにしたその日の午後早く、ミロは、シュラの磨羯宮にやって来ていた。自分を捨てた恋人にあとを託されて、慰めにきてくれたカミュに、帰ってもらい、少し冷静になろうと、いつも冷静な師匠、山羊座のシュラに、会いに行くことにしたのだ。
「シュラ?」
ミロが玄関口で呼ぶと、奥から、煙草の匂いが近づいてきた。嫌煙家のミロは、この匂いに敏感だ。
「どうした?蠍」
主はデスマスクだった。入るか?とデスマスクは訊いた。
「此処の主人は明け方まで仕事で、今寝てるがな」
デスマスクは居間の入り口の灰皿に煙草を捨てて、ミロをシュラの居間に迎え入れた。書架が居並ぶ蔵書家のシュラの居間は、禁煙なのだ。
ミロはシュラの居間で、書棚に囲まれて、立ち尽くしていた。そんなミロに、デスマスクが話を切り出す。
「あいつと、別れたのか?」
まだ、今朝のことなのに、何故かデスマスクは知っている。
「…何故知っている?」
戸惑うミロ。自分にさえ昨日突然に、晴天の霹靂のように、降ってきた話だ。
「あいつが、昨日云ってた」
「……」
あいつはそんなべらべら、自分のことを話すやつじゃないのに。
「心配するな、訊き出したのは俺だ。あいつからは云わなかった」
「……」
ミロは、どうしていいか分からない。何を考えていいかも分からない。自分は、もうカノンには逢えないのだと知ってはいたが、ただ、昨日の出来事が頭の中をぐるぐる回って、現実感が全然ない。
ミロが呆然としているので飲み物を取りに行ったデスマスクが、居間に戻ってくる。ミロは相変わらず書架の谷間に、立ち尽くしていた。
「…俺はこれから、どうすれば良いのだろう」
ミロは、デスマスクの姿を目で捉えると、こう呟いた。
「目の前が、真っ暗だ」
ミロの空色の瞳は、今日は泣き腫らして、虚ろに、沈んだ色に見える。生きた、光のない瞳。
「…人に絶望するなら、まず先にお前が首をくくれ」
デスマスクは飲み物を渡すのも忘れて、そう言い放った。そしてその語調の強さに自分で驚いて、後悔した。
(お前がそんなに、死んだ方がましみたいな顔でいるからだ…)
しかし、云ってしまった言葉は、取り消せない。悩むデスマスクは、ミロの様子を伺う。
「…あいつが、俺が死んだら、別れる意味がないと云った」
ミロは、意外にも取り乱さず、静かに呟いた。
(そんなことを、云ったのか…)
あの、すかしたそつのない男が、そんなことを云ったのか。
「ミロ…!」
何だか心を動かされて、デスマスクは、普段は滅多にないことだが、蠍を抱擁した。
「あいつはな、お前に絶望させる前に、自分が首をくくったんだ…」
なんて、勝手な、独り善がりな、莫迦な男なのだろう。
ただ、蠍を抱擁していると、素直ではなかったあの男の、苦悩と愛執が滲み込んでくるような気がして、しばらくそうしていた。
January~February, 2007 Rei @ Identikal
"Die Krankheit zum Tode" : Kirkegaardより「死に至る病」。
"Verzweiflung ist die Suende" : 同じくKirkegaardより「絶望は罪である」