Atheismus


アセイズム



しらとりはかなしからずやそらのあおうみのあをにもそまずただよふ




 いつものように海底行きの早朝、山羊座の磨羯宮に立つ。蔵書家のシュラに、本を借りる為だ。

「シュラ、今いいか?」

「ああ、本か?」

シャワーを浴びたばかりだろう半裸のシュラが、濡れた髪のまま、出てくる。黒髪から垂れる、滴を拭いながら。

「ああ、また今から海底なんだ。少々、難しい注文になる」

まだ、何を借りたいのか、決まってはいないのだが。

「何だか、神について、読みたいのだろう?」

「…そうだ」

何故、分かるのだろう。

「蟹に聞いた」

「ああ、そうか」

そう云えば先日蟹と、そんな話をしたなと、思い当たる。

「…何か、悩んでいるのか?」

「何故?」

浮き世ずれしていない、というより他人事に無関心な山羊にしては、察しが良い。

「お前にしては、珍しいなと、思っただけだ」

神をも誑かすほどの、豪儀なお前にしては、とまでは、シュラは云わない。そんな下世話なことは、考えもしていないのだろう。

「ああ、そうかも知らんな」

シュラは、地元スペインの修道女についての本を、持ってきた。

「祈りについて、書いてある」


 神をも誑かした男が、祈りなんて、酷い話だ。




 蠍は海が見たいと言った。連れて行ってやる、時間の余裕がない。海は、仕事場だ。連れて行ってやれないと言うと蠍は、平気な顔で言った。帰りを、海辺で待つと。



 ふざけた蠍だ。



 約束の日に海辺に立つと、もう、海に夕日が沈む時間だった。

「カノン!」

待ちわびていた長い銀髪が潮風に煽られるのを見つけて、岩陰で本を読んでいた蠍が、駆け寄ってくる。

「…お前、待たなくても良かったのに」

「待つって言っただろうが」

「待てとは言ってない」

「俺が待ちたかったんだ」

週末くらいは蠍と一緒にいてやりたいのに、結局蠍を一日待たせてしまっただけだ。

「待たなくても、良いのに」

「…莫迦を云うな!」

蠍は、言葉の裏の意味に、気付いたようだった。怒りながら瞳を潤ませる蠍を、抱き寄せる。久しぶりの、あの香りが、蜂蜜色の髪から、漂ってくる。


 訪れる夕闇に、追われるようにさっき蠍がいた岩陰に駆け込む。時折肌を嬲る微風。終わらない潮騒のなか無言で、体を重ね合っている。


 不意に、指先に温かい感触が走る。

「指が綺麗だ」

自分を抱く腕の、その長い指を、口に含んで。

「あいつと同じ指だ」

蠍を抱いたまま、耳元で囁く。

「…声が好きだ」

上気した頰で、うっとり、蠍が云う。

「あいつと同じ声だ」

吐き捨てるように。汗ばんだ耳を噛むと、口に広がる潮の味。

「お前が好きだ」

「……」

返す言葉が、無い。

「何も、云わなくていい」

何を云えば良いのか分からないのを、見通すかのように。

「…だから、待たなくていいとか、云うな」

いつの間に、こんなに大人びたんだろうと思う、腕のなかの蠍は、その、ふわふわの蜂蜜色の髪から、相変わらず、甘い果実の匂いがした。


 接吻をする。地中海の静かな潮騒だけが、耳に残る。


 今日の潮風は、甘い匂いがする。


 ずっとこうしていたいと、思ってしまう。


 お前が海の底から戻ってくるのを、いつまでも待つと。


 待たせたくない。


 長くは続かない。


 ずっとこうしていたい。


 どうか…!



 


 …ああ、根っからの無神論(アセイズム)に浸りきれれば、随分と、楽になれるのに…





 …最期は、腹の上の、この淫蕩な蠍の毒針で、この世から消して欲しい…








January~February, 2007 Rei @ Identikal



「白鳥(しらとり)はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」若山牧水『海の聲』より。

atheism : 無神論。

theology : 神学。